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80年前、太平洋を押さえようとした日本 ミッドウェー海戦と中国を重ねて見える教訓:朝日新聞GLOBE+.

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ミッドウェー海戦
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午後0時40分 、飛龍第二波攻撃隊が着艦した [] 。零戦2機、艦攻5機(友永隊長機を含む)を失い、艦攻4機が修理不能、零戦1機が不時着(乗員は救助)、零戦3機が修理後戦闘可能、艦攻1機が修理後戦闘可能と報告している [] 。飛龍の鹿江隆副長は「 米空母2隻撃沈により これで1対1だ。これで勝てるし、悪くても相討ちにできる」と感じたという [] 。だが飛龍の戦力は戦闘機6、艦爆5、艦攻4、十三試艦爆1機に減少し [] 、炎上する赤城に「もし発艦出来る飛行機があったら、飛龍に収容されたし」と伝えた [] 。山口少将は十三試艦爆によりアメリカ軍空母の位置を把握し、同機の誘導により、修理の見込まれる全兵力で薄暮攻撃をかけることを伝える [] [] 。ただし攻撃機の消耗度から三隻目の撃破は難しいと考えた [] 。山口の幕僚によれば、一次攻撃、二次攻撃での被害が山口少将の予想をはるかに上回るもので、山口少将は三次攻撃の断行に逡巡をしめしたという [] 。この間、赤城・加賀・蒼龍から飛龍に着艦した零戦が交替で飛龍の上空を守っていた [] 。敵からの攻撃に関して山口少将は「現在の上空警戒機で阻止できる」という意向を話した [] 。.

十三試艦爆の発進準備が終わり [] 、友永隊を護衛していた加賀所属零戦1機( 山本旭 一飛曹)が着艦しようとした時 [] 、アメリカ軍急降下爆撃隊24機は飛龍の上空に到達した。エンタープライズの艦爆隊指揮官ギャラハー大尉は、ヨークタウン隊に戦艦を狙うよう命令すると、飛龍の飛行甲板の日の丸マークを目標に突入した [] 。. 午後2時()、直衛の零戦6機の迎撃と飛龍の操艦によってエンタープライズ隊6機の攻撃は失敗した [] 。続いてヨークタウンの爆撃隊、エンタープライズ隊3機が太陽を背にするようにして攻撃した [] 。護衛の利根と筑摩が対空砲火で迎撃したが阻止できず、飛龍に爆弾4発が命中した [] 。長良からは、飛龍のエレベーターが飛龍の艦橋の前に突き刺さっているのが目撃されている [] 。またヨークタウン隊の2機は付近を航行していた戦艦榛名を爆撃したが、至近弾に終わった [] 。ヨークタウン隊に遅れて戦場に到着したホーネットの艦爆隊15機は利根と筑摩を攻撃したが、全て回避されている [] 。.

この他にも飛龍と筑摩は午後2時30分 、午後3時15分 にハワイから飛来したB爆撃機から攻撃されたが、これによる被害はなかった [] 。. 炎上した飛龍は午後6時23分 まで機関は無事だったため、離脱と消火に努めた。だが艦橋と機関科間の電話が不通で、機関科は全滅と判断された [] 。しばらく洋上に浮いていた飛龍に横付けされた駆逐艦が消火協力したものの、誘爆が発生して消火不能となった [] 。午後11時30分(現地時間6月5日2時30分)、山口少将は南雲司令部に総員退艦させると報告し [] 、加来艦長と共に、駆逐艦 巻雲 の 雷撃 によって沈む飛龍と運命を共にした。飛龍が雷撃処分されたのは日本時間6月6日午前2時10分だが [] 、艦底部から脱出した機関科員34名が沈みゆく飛龍から短艇によって離艦したのは、巻雲の魚雷が命中してから数時間後の午前6時分だったという [] 。彼らは15日後にアメリカ軍に救助された。戦死者は、戦闘詳報によれば名(傭人6名含)のうち、山口司令、加来艦長ら准士官以上30名、下士官兵名の計名である [] 。搭乗員も友永、小林両隊長を含め72名が戦死した。ただし名には先のアメリカ軍に救助された機関科員34名が入っている。.

軽巡洋艦長良に移乗した南雲中将は、日本時間6月5日午前8時28分 現地時間6月4日 に筑摩偵察機から「敵は北東90浬」の報告を受けて水上戦闘を決意し、午前8時53分に「今より攻撃に向かう、集まれ」と集合命令を出した [] 。日本軍三空母炎上の報告を受けた連合艦隊旗艦大和の艦橋は雰囲気が一変し、黒島亀人首席参謀は涙を浮かべてテーブルを叩いた [] 。山本五十六長官は渡辺と 将棋 を指している時に「赤城、被爆大、総員退去」との報告を受けたが、「ほう、またやられたか」「南雲は帰ってくるだろう」とつぶやいただけでそのまま将棋を続けたという [] 。この時、連合艦隊主隊は濃霧の中で戦艦 長門 が連絡不能になるなど混乱しており、焦りがつのるばかりであったという [] 。午前9時20分 、山本五十六長官は GF 電令作第号で輸送船団の一時北西撤退を命じる。日本軍攻略部隊(第二艦隊)の 近藤信竹 中将は、これを受けて占領隊(日本軍輸送船団)に北西退避を命じ、 栗田健男 少将の支援隊(第七戦隊)に合同するよう命じた [] 。同時に山本長官は、アリューシャン方面に投入されていた第二機動部隊 角田覚治 少将、空母隼鷹および龍驤 に対し、第一機動部隊(南雲機動部隊)と合流するよう打電した [] 。だが両艦隊の距離は遠く、合流は早くとも9日で、 宇垣纏 連合艦隊参謀長は空母を分散させたことを後悔している [] 。同時刻、南雲中将も各艦に「昼戦をもって敵を撃滅せんとす」と伝え、第八戦隊(利根、筑摩)は魚雷戦を挑む準備を整える [] 。午前10時、山本長官はGF電令作第号、号にて第二艦隊に以下の命令を伝えた [] 。.

山本長官の命令により、 近藤信竹 中将は第七戦隊(熊野、鈴谷、三隈、最上)にミッドウェー島へ向かうよう命じ、同時に南雲機動部隊と策応してアメリカ軍機動部隊に夜戦を挑む方針を示した [] 。連合艦隊は、ミッドウェー基地のアメリカ軍航空兵力が稼働状態にあるか、南雲部隊に尋ねている [] 。長良には空母飛龍が米空母2隻を撃破したという連絡が入り(ヨークタウンを2度攻撃したことの誤認)、草鹿参謀長は希望を抱いた [] 。しかし、夜戦を企図しつつ北上中の午後2時5分 、飛龍大破の報により、アメリカ軍機動部隊とミッドウェー基地航空隊 制空権 下での水上戦闘は困難と南雲は判断する [] 。そこで一旦西方に反転し、改めての夜襲を企図した。草鹿参謀長によれば「万事休す [] で、「レーダーもなく、駆逐艦も少なく、望みのない夜戦に一縷の望みをかけて、当てもなくただ走りまわっていた」と回想している [] 。宇垣参謀長は空母4隻を目前で失ったからには当然の反応だろうと理解を示しながらも [] 、戦艦や重巡洋艦から水上偵察機を発進させて索敵を行わない南雲司令部を「消極的、退廃的」と批判している。近藤中将の第二艦隊は軽空母 瑞鳳 を有しており、米艦隊に積極的に戦闘を挑む方針を示した [] 。炎上日本空母を護衛していた第四駆逐隊司令 有賀幸作 大佐(後に戦艦大和艦長)は「敵機動部隊接近すれば刺し違えよ」と配下駆逐艦に下令していた [] 。.

午後2時13分 、筑摩の2号偵察機は、甲板に損傷なく傾斜停止したエンタープライズ型空母を発見し、周囲の護衛艦艇が空母をその場に残して東に去ったと報告した [] 。南雲司令部は、飛龍第一波攻撃隊(小林隊)が爆撃を行った空母(ヨークタウン)は既に沈没・飛龍第二波攻撃隊(友永隊)が雷撃した空母(ヨークタウン)は漂流と判定した [] 。1時間後、筑摩2号機は米空母1、巡洋艦2、駆逐艦4発見を報告、続いて米空母1隻の存在を報告する [] 。先任参謀の 大石保 中佐が長良の偵察機を夜間発進させ索敵するように進言し、他の幕僚は懐疑的であったが、南雲はその案に同意した [] 。その後、筑摩2号機が「炎上米空母の後方に、更に米空母4隻を発見」と報告してくる [] 。南雲司令部では「まさか」という声があがったが、これを信じ [] 、戦闘詳報には「南下中順次にこれ等の敵を発見せるものにして同一部隊ノ重複ナキ事確実ナリ」と記録 [] [] 、南雲中将は「敵航空母艦の予想外に優勢なるを始めて知れり」と驚いている。午後4時15分、 山本五十六 長官と 宇垣纏 参謀長は南雲部隊に対し、GF電令第号として以下の命令を伝えた [] 。.

午後5時30分 、山本長官はGF電令号にて 伊号潜水艦 に対して「伊潜水艦は迄AF(イースタン)島航空基地の砲撃破壊に任ずべし。同時刻以降は第七戦隊 栗田少将 が砲撃の予定」と告げ、ミッドウェー基地を夜間砲撃するよう命じた [] 。南雲中将は山本の敵情判断が間違っているとみて、午後6時30分 21:30 、機動部隊機密第番電において筑摩の2号機の「空母5隻」発見とミッドウェー基地航空隊の活動を伝達する [] 。南雲中将は続く午後7時50分 の電信で「GF電令作第号に関係し敵空母 特空母艦含むやも知れず は尚4隻あり」と、自軍空母の全滅を報告した [] 。すると山本長官より、第二艦隊司令官 近藤信竹 中将に赤城と飛龍を除く機動部隊戦力の統一指揮を任すという命令が届いた [] 。南雲部隊第八戦隊は第二艦隊と合流し、アメリカ軍と戦闘を継続したい旨を伝えている。.

日本時間6月5日午後9時15分、山本長官は第二艦隊と南雲機動部隊(赤城・飛龍)に対し、夜戦の中止と主隊(大和以下、第一艦隊)への合流を命じ [] 、午後10時11分、南雲部隊は反転した。午後11時55分、山本長官は連合艦隊電令号で以下の命令を伝達した [] 。. ミッドウェー作戦の中止が決定した瞬間であった。日本軍は撤退を開始する。6月6日午前4時30分 現地時間6月5日 、軽空母 鳳翔 の 九六式艦上攻撃機 が漂流する飛龍と甲板上の生存者を発見、連合艦隊司令部は南雲司令部に飛龍が沈没したかどうかを確認せよとの命令をだした [] 。飛龍の現状を知らなかった南雲部隊司令部は午前9時45分 、長良より偵察機を発進させ、駆逐艦 谷風 を飛龍の処分と生存者救助のために派遣した [] 。谷風はエンタープライズから発進したSBDドーントレス16機の攻撃を受けたが、4機の撃墜を報告して生還した [] 。谷風を攻撃したホーネット隊は「 香取型練習巡洋艦 を攻撃した」と報告したが(実際は駆逐艦谷風)、撃墜されたのは1機であった [] 。午前中に、山本の主隊、近藤の攻略部隊、南雲の残存部隊は合流した [] 。.

支援隊の第七戦隊(重巡洋艦:旗艦熊野と、鈴谷、三隈、最上)は上陸する輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが、南雲機動部隊の壊滅によって山本から新たにミッドウェー基地砲撃の命を受け、全速で前進していた [] 。その後、夜戦中止に先立ってミッドウェー島砲撃中止命令が出された。第七戦隊はミッドウェー島90浬の地点で転進を行ったが、その1時間20分後、米潜水艦 タンバー (SS)を発見して緊急回頭を行い、その際に三番艦三隈と最後尾の最上が衝突 [] 。最上は艦首を切断、速力10ノットに落ちた。第七戦隊司令官の 栗田健男 少将は最上の護衛に三隈と駆逐艦2隻(第八駆逐隊:荒潮、 朝潮 )をあてると南西のトラック島への退避を命じ、栗田少将は熊野と鈴谷を率いて主力部隊と合流するため北西に向かった [] 。.

一方のアメリカ軍では、飛龍攻撃隊により空母ヨークタウンが大破し漂流していた。駆逐艦ヒューズだけがヨークタウンの護衛として残された [] 。その後ヨークタウンではサルベージ作業が進み、艦隊曳船ヴィレオが救助に向かう [] 。フレッチャーから指揮権を渡されたスプルーアンス少将の第16任務部隊も日本艦隊の動向が把握できず夜戦に持ちこまれる可能性を考慮、一時的に東へ退避する [] 。しかし翌7日の黎明、第16任務部隊はミッドウェーの防衛と日本艦隊の追撃のため西進する。. 日本時間6月6日、潜水艦タンバーの報告を受けたアメリカ軍は、まずミッドウェー島の航空戦力で三隈と最上を攻撃した。SBDドーントレス6機、SB2Uビンディケーター6機、B爆撃機8機が攻撃、SB2U指揮官機が三隈の後部砲塔に体当たりし、最上が至近弾で戦死者2名を出した [] 。アメリカ軍機動部隊の追撃を受けた三隈と最上は ウェーク島 に向かい、連合艦隊主隊と攻略部隊も三隈の救援と米機動部隊の捕捉に向けて動き出す [] 。6月7日、スプルーアンスは「空母1隻、駆逐艦5隻発見」という索敵機の報告を元に、ホーネットとエンタープライズから撃隊を発進させた [] 。アメリカ軍攻撃隊は空母の代わりに「戦艦」を発見し、最初は航空母艦、次は戦艦と誤認された三隈は集中攻撃を受けて沈没 [] 。また最上や駆逐艦朝潮、荒潮も被弾。近藤信竹中将は第二艦隊に「敵空母部隊を捕捉撃滅して三隈・最上を救援せんとす」と命じて反転したが、アメリカ軍機動部隊の捕捉に失敗している [] 。翌8日午前中、最上は救援にかけつけた第二艦隊と合流、空襲圏外へ脱した [] 。.

戦艦大和以下の主力部隊は夜戦を企図し東進していたが、飛龍を失い、再考して翌0時に夜戦の中止を決定し、3時頃には作戦自体を中止。主力部隊は結局ミッドウェー島の遥か数百キロメートル後方におり、本海戦には参加できず、駆逐艦が救出した生存者を医療設備の整った戦艦で手当てを行ったに留まる。赤城の生存者達は、大和以下本隊が戦闘に全く関与しなかったことを罵ったという [] 。日本軍輸送船団は、アメリカ軍機動部隊の追撃に備えて陣形を変更した [] 。山本長官は、アメリカ軍の追撃部隊をウェーク島の基地航空隊活動圏内に引き込むよう命じたが [] 、アメリカ軍はそこまで深追いしなかった。.

第一機動部隊 第一航空艦隊基幹 指揮官: 南雲忠一 中将. 第十戦隊 司令官: 木村進 少将. 主力部隊主隊 連合艦隊直率基幹 指揮官: 山本五十六 大将. 警戒隊(第三水雷戦隊)指揮官: 橋本信太郎 少将. 主力部隊警戒部隊 第一艦隊基幹 ‘ 指揮官: 高須四郎 中将. 攻略部隊 第二艦隊基幹 本隊 指揮官: 近藤信竹 中将. 攻略部隊支援隊 第七戦隊基幹 司令官: 栗田健男 少将.

攻略部隊護衛隊 第二水雷戦隊基幹 司令官: 田中頼三 少将. 攻略部隊占領隊 司令官: 太田実 少将. 陸軍一木支隊 支隊長: 一木清直 (陸軍)大佐 合計約2,名. 攻略部隊航空隊 指揮官: 藤田類太郎 少将. 先遣部隊本隊 指揮官: 小松輝久 中将. 第17任務部隊 Task Force 17 司令官 フランク・J・フレッチャー 少将. 第16任務部隊 Task Force 16 司令官 レイモンド・A・スプルーアンス 少将. 潜水艦部隊 司令官: ロバート・H・イングリッシュ 少将. 上記の沈没・損傷艦の他、筑摩の航空搭乗員3名、利根の航空搭乗員2名、駆逐艦谷風11名、朝潮21名、荒潮35名、嵐1名、風雲1名、給油艦あけぼの丸10名が戦死した。総計3,名を失い、その中に加賀の飛行隊長: 楠美正 少佐(戦死後中佐に一階級特進)、飛龍の飛行隊長: 友永丈市 大尉(戦死後中佐に二階級特進)ら名の空母艦載機搭乗員を含む。各母艦別の搭乗員損失は、赤城7名 艦戦4、艦爆1、艦攻2 、加賀21名 艦戦6、艦爆6、艦攻9 、蒼龍10名 艦戦4、艦爆1、艦攻5 、飛龍72名 艦戦11、艦爆27、艦攻34 [] 。搭乗員損失率は反撃した飛龍が最多。空母上でアメリカ軍機空襲とその後の誘爆により戦死した搭乗員は赤城4名、加賀13名、蒼龍4名、飛龍8名である [] 。.

海戦直後の混乱や作戦後の被害秘匿のための特殊な人事処理で、海戦直後の資料は不正確。第一航空艦隊が6月12日に行った報告では、第一航空戦隊、第二航空戦隊で、戦闘機45名、艦上爆撃機51組、艦上攻撃機57組が残存となっている。内地に帰還したのちに作成された第一航空艦隊戦闘詳報では消耗52組となっている [] 。. この作戦後、山本連合艦隊長官やその幕僚の責任は問われず、一航艦も長官南雲忠一、参謀長草鹿龍之介は一航艦の後継である 第三艦隊 の指揮をそのまま受け継いだ。しかし、それ以外の一航艦の幕僚は全て降ろされ、また士官も転出させられた(一航艦航空参謀 吉岡忠一 はミッドウェー海戦の資料作成のためしばらく残留した) [] 。. 開戦時に山本長官は「日本は開戦から半年、もって1年は優勢を維持できるが、それ以降はアメリカ(と連合軍)の国力が日本を圧倒する」と述べ、短期決戦早期講和を目指していたが、当作戦の失敗、大敗北により発言力を失った。また実質短期決戦は不可能となったため、軍令部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換せざるを得なくなった。ミッドウェー海戦直後の参謀本部への説明の中でも、軍令部は「主力空母が2隻( 翔鶴 、 瑞鶴 )では守勢の外はない」と述べている [] 。しかし国力で圧倒される以前に、戦略、戦術、用兵など全ての拙劣さにより喫した敗北だったにも拘らず、事後に作戦戦訓研究会は開かれず、国民にもこの敗北は伝えられなかった。唯一上記のように 参謀本部 (陸軍)に対してのみ迅速に伝えられ [] 、ミッドウェー海戦の実態については海軍内はもとより陸軍内でも情報統制がなされた。これは前 陸軍大臣 の 畑俊六 にさえも真相は伝えられていなかったほどである [] 。.

珊瑚海海戦 の大本営発表から戦果の大きな水増しが始まったが [] 、本海戦でも戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、敵飛行機機を撃墜。味方の損害は空母一隻、重巡洋艦1隻沈没、空母一隻大破、未帰還機35機」と国民に発表、士気の阻喪を防ごうとした [] 。. 本海戦で空母4隻とその搭載飛行機全てを失ったことは大きな痛手であった。既に珊瑚海海戦で 空母祥鳳 を失い、第五航空戦隊も多数の機を失っていた。艦上機は戦闘機会が少ないので生産要求が小さく、この損失はすぐに補填できないものであった [] 。ただし本海戦で、搭乗員はほとんどが脱出に成功したため、大きな損失はなかった。アメリカ攻撃隊の技量が低かったこと、飛龍が少数機で戦果を上げたこと、今回の仇うちを目指すことなどで搭乗員の士気はむしろ上がっていた [] 。しかし搭乗員もまたすぐに補填がきくものでないことは同様で、今後後継者育成は追いつかないまま、熟練パイロットも失われていく一方となる。.

ミッドウェー海戦後、立て直しの好機として、従来の要求、本海戦の戦訓を取り入れた空母部隊再建の打ち合わせが一航艦、連合艦隊で行われた。内容は、機動部隊の建制化、警戒兵力の増強、航空戦隊の再編、索敵の強化、火災予防の強化、消火訓練の徹底などであった。航空戦隊再編はミッドウェー海戦の戦訓から、大型空母2隻を攻撃の主体、小型空母1隻を自隊の防御とした三隻編制を一個航空戦隊とする。さらに従来の戦艦を中心とした艦隊決戦から空母を使用不能にして制空権を獲得する航空決戦の方針へと変わった [] 。. そして、アメリカは戦前から建造を進めていた、大型の エセックス級航空母艦 が年中旬以降に大量配備されるまでの時間を何とか確保することができた。しかし、まだ新しい航空母艦の就役と戦力化に時間がかかるため、アメリカ軍は、止むを得ず単艦による作戦行動が多かった航空母艦を集中運用するようになる。. しかし、この後年8月に行われた ガダルカナル島の戦い で日本海軍潜水艦の雷撃によって ワスプ が沈没し、 サラトガ も損傷を受けて修理のために戦線離脱する状況が生じた。さらに、年10月に行われた 南太平洋海戦 で空母 ホーネット が日本海軍に沈められて、 エンタープライズ も損傷した。それにより、アメリカ海軍は一時的に太平洋戦線での稼動空母が0になるという危機的状況へ陥った。.

一方、ミッドウェー海戦で駆逐艦 嵐 が6月5日に撃墜されて漂流する空母 ヨークタウン の雷撃隊生存者ウェスリー・フランク・オスマス(オスムス)海軍予備少尉を救助して捕虜にしたが、6月6日に艦船の何者かに斬殺されるという事件が起き、水葬された [] 。ミッドウェー海戦で救助され捕虜になった米軍将兵はオスムスを含めて3人で、救助した艦船の何者かによって皆殺されたという [] [] [] [] 。. 連合艦隊がこの作戦計画案を関係者に配布したのは、4月28日であった。その後図上演習開始まで関係者は戦訓研究会に出席していたので、作戦計画について深く研究する時間的余裕はなかった [42] 。. 図上演習でも、ミッドウェー攻略の最中に米空母部隊が出現して日本の空母に大被害が出る、攻略の遅れや燃料不足など問題が続出し、攻略作戦続行が難しい状況となったが、連合艦隊参謀長の 宇垣纏 が空母を復活させるなど審判をやり直させて続行させた [49] [50] 。宇垣の強引な判定には、ミッドウェー作戦からハワイ攻略までの図上演習を行う時間が3日間しかなく、スケジュールが 逼迫 ( ひっぱく ) していたという事情もあった [] 。この研究会で麾下各部隊が最も強く要望したことは、作戦準備が間に合わないゆえの作戦期日の延期であり、軍令部からも週間遅らせることを勧められたが、連合艦隊はこれに応じなかった [57] [] 。.

また、連合艦隊と軍令部の意思統一ができておらず、本作戦の主目標が、ミッドウェー島攻略にあるのか、敵機動部隊の撃滅にあるのか、はっきりしていなかった。軍令部は主目標をミッドウェー島攻略にあるとし、大本営命令においてもそれが主目標と指示されていたが、連合艦隊首脳は敵機動部隊撃滅を重視する発言をしていた。そのため、最前線部隊の第一航空艦隊にはどちらの目標も周知徹底されることがなかった [42] 。. アメリカ軍は、本作戦では戦力が分散していたが、空母3隻、重巡7隻ほか合計57隻を決戦海面に集めた。日本側がミッドウェー・アリューシャン作戦に動員した戦力は、戦艦11隻、空母6隻、重巡17隻ほか合計隻に達していたが、決戦海面で戦うことができたのは、戦艦2隻、空母4隻、重巡2隻ほかに過ぎなかった。空母1隻あたりの護衛能力は下回り、しかも航空兵力の半分を陸上攻撃に向かわせるという致命的な失敗を犯した。ニミッツ司令長官は「日本軍が6隻の空母、11隻の戦艦などを集中運用していたならば、いかなる幸運や技量をもってしても敗走させることはできなかったであろう。日本海軍は奇襲を必要としない場合も奇襲に依存するという錯誤を犯したのである」と語り、日本の作戦構想の誤りを指摘した [] [ 要ページ番号 ] 。 ゴードン・ウィリアム・プランゲ (元GHQ戦史室長)は、アリューシャン方面に空母龍驤、隼鷹を投入したことが、山本五十六最大の失策だったと指摘している [] 。 防衛大学校 戦略教育室は、日本が兵力を分散したためミッドウェー沖で戦闘に参加した航空機の数がアメリカより少なかったことが根本的な原因であるとしている [] 。.

連合艦隊が機動部隊で上陸点の制空を獲得することを前提として開戦時と違い十分に警戒された敵要地に奇襲が成功すると決め、奇襲不可なら反撃され損害を受けることを考慮しなかった点 [] [] 、敵情判断を誤り、南方攻略作戦の成功から日本の希望通りに予定が進むと思い込み敵を軽視し、予期せぬ事態に対処する余裕のない作戦立案を行った点 [] [] 、ミッドウェー攻略を早く認めさせるために大本営の要望するFS作戦を組み入れたことで作戦に無理を招いた点について批判がある [] 。また、連合艦隊はミッドウェー島上陸を6月7日に固定したため作戦の柔軟性が失われた [] 。機動部隊の草鹿参謀長は、この作戦では機動部隊の後から後から上陸部隊など他の艦隊がやってくるので非常に窮屈なものであったと語っている [] 。. 連合艦隊は占領後の基地航空部隊の進出を急いでおり、機動部隊の空母4隻に第6航空隊の航空機21機を輸送のため積んだので、格納庫は窮屈になり、不要な物を載せないという被害局限の原則にも反していた [] 。.

連合艦隊は第一航空艦隊から、連合艦隊が敵情を把握し米機動部隊の動向は機を逸せず通報するように懇願されて、重要な作戦転換は連合艦隊司令部から一航艦に発せられることになっていた [] [70] 。また、機密連合艦隊命令作第14号には、主力部隊の内地出撃から帰投までの太平洋方面の敵情通報は東京から放送することが定められ、東京には連合艦隊通信部隊の中枢に第1連合通信隊司令官 柿本権一郎 少将がいた [] 。. しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった [] 。そのため、第一航空艦隊は敵潜水艦に発見された情報も知らされず、その後の敵の緊急信増加、動きの活発化が何を意味するのか判断がつかず、敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動することになった [] 。連合艦隊の宇垣参謀長は海戦後の日記に第一航空艦隊に対して「当司令部も至らざる処あり相済まずと思慮しあり」と残している [] 。機動部隊の草鹿参謀長は、大和が無線封止を徹底し機動部隊に敵情を伝えなかったのは本末転倒であると批判している [] 。.

ミッドウェー作戦は、真珠湾に米機動部隊が在泊していることを前提として計画しており、そのため連合艦隊は、真珠湾の動静確認が重要で知敵手段として 散開線 への潜水艦哨戒配備と 二式飛行艇 での敵情偵察を行う K作戦 を計画したが、間に合わず失敗した。この報告を受けた連合艦隊は計画が崩れたことに何ら対策を取らなかった。戦後、連合艦隊参謀の黒島亀人は「海軍の常識からいえば、この場合の散開線構成は、西方で散開隊形を概成したのち東進して、所定配備に潜水艦をつけるべきである。ところが私の敵情判断の間違いなどから、あんな配備のつき方を計画してしまった。そのうえ、連合艦隊の指導が至らず潜水艦の準備が遅れてしまった。また、今次作戦は連合艦隊の主兵力を使って行なう作戦であるから、潜水部隊は連合艦隊の全兵力を集中すべきであった」と語っている [] 。K作戦失敗で完全に日本は敵機動部隊の知敵手段を失ったが、黒島は「わが機動部隊は無敵で、敵を圧倒できると信じていたので、このため特別な処置は考えなかった」という [] 。.

この潜水艦と飛行艇による哨戒網は6月2日の予定だったため、計画通り進んでも5月28日にサイパンを出発するミッドウェー攻略部隊が発見されて真珠湾の米機動部隊が動いた場合、間に合わない作戦だった [] 。. 連合艦隊の幕僚たちは南雲中将に批判的であり、交代を要望しており、草鹿参謀長にも批判的であった [] 。また宇垣によれば、「(一航艦)司令部は誰が握り居るや」の質問に二航戦司令官の山口少将は「(南雲)長官は一言も云はぬ、参謀長先任参謀等どちらがどちらか知らぬが臆怯屋揃いである」と答えている [] 。攻撃隊の指揮官だった 淵田美津雄 によれば、戦前の南雲中将の印象は末頼もしい提督の面影があり、 第一水雷戦隊 司令官としても抜群の武将であるとの評判が高かったが、開戦後は航空という畑違いのせいもあってかはつらつとした昔の闘志が失われ、何としても冴えない長官であり、作戦を指導する態度は消極的で、長官自ら乗り出してイニシアチブをとるというようなことはなく、最後にうんそうかで採決するだけのようであったという。また当時、航空参謀の源田実から、大西瀧治郎や山口多聞あたりが上にいてくれるとあらゆる角度から叩き直して突っ返してくるから安心して自由奔放に作戦を練られるが、南雲司令部のように国運を左右するかもしれない案がチェックされずに通っていくと責任感で圧迫されて自然と萎縮してしまうという苦衷も聞いたという [] 。.

そもそも南雲中将は 第二艦隊 などの水上艦部隊の方が適任であり、年功序列で第一航空艦隊司令長官を決めた海軍人事行政に問題があったという指摘もある [] 。一方で、戦術戦略には共通分母があり、水雷出身者でもあっても空母に乗って半年も経てばそれが判るはずだったとの批判もある [] 。ミッドウェー海戦で米機動部隊を率いたスプルーアンスは、病気に倒れた ハルゼー の代理で、ハルゼー麾下の巡洋艦戦隊の司令官から急遽抜擢された人物であり、空母勤務の経験は無く、この海戦の時点では南雲以上に航空に疎い提督だった [] 。. 草鹿参謀長は「山本の望みは南雲も幕僚もよく知っていた。事実状況が許す限りそうした。しかしミッドウェー基地の敵航空兵力がわれわれに攻撃を開始し敵空母も発見されていない状況でいるのかどうかわからない敵に半数を無期限に控置しておくのは前線指揮官にとして耐えられないことだった。後で問題だったとしてもあの当時の状況では南雲の決定は正当だった」と語っている [] 。戦後、日本を占領統治した 連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)で戦史室長を務めた ゴードン・ウィリアム・プランゲ は、当時の南雲の状況に加えて、連合艦隊からの敵情情報も敵艦隊なしだったことから、南雲の判断は妥当とし、指揮上の失策ではなく、情報上の失策であると分析している [] 。一方、南雲司令が攻撃隊の半数待機を破る命令を出したのは索敵機が索敵範囲の先端に達する前であり、(攻略中の)図上演習において不意に米空母部隊が出現して日本が大損害を受けたことから警戒が足りなかったという批判もある [] 。蒼龍に乗船していた攻撃隊パイロットは「ミッドウェーで日本軍が従来の教科書的な戦法から脱し得ず、敵空母確認の報告が入るまで艦船攻撃の用意をしないで基地攻撃に囚われ続けてしまった」と述べている [] 。加賀の艦攻隊分隊長の牧大尉は「空母はいるかどうかわからない」と考えておらず、「ミッドウェー攻撃のあいだに敵空母が出現したら味方はお手上げだ」と飛行長に雷装を解かないよう抗議したが、聞き入れてもらえなかったという [] 。.

南雲司令部は、第一次攻撃隊発進直後、「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編制をもって本日実施予定」と発信している [] 。この予令は存在しないという証言もある [] (「 資料の問題 」節を参照)。第四編制では上空警戒機は各空母で3機ずつとなる計画だった。この予令にはミッドウェー基地への奇襲が成立するという判断があったという意見もある [] 。この予令が存在したとして、予令で兵装転換の作業を開始することはない [] 。. 南雲の敵状判断は、第一次攻撃隊を発進させる直前のものとして、敵機動部隊は付近海面に行動中と推定する資料がないこと、攻略作戦が始まれば、出動してくる算があることが述べられている [] 。南雲の幕僚も敵がこちらの企図を察知していないもの、敵空母はハワイにあるものとして行動していたと証言している [] [] 。敵機動部隊については、連合艦隊が把握し、動向は機を逸せず南雲に通報し、また重要な作戦転換は連合艦隊司令部から発せられることになっていた [70] [] 。しかし、連合艦隊は付近に敵空母の疑いを感じ、情勢が緊迫してきたと判断しながら甘い状況判断の放送を東京から全部隊に流したまま、自己判断を麾下に知らせなかった [] 。航空参謀の吉岡少佐は、敵機動部隊の出現がないと思い込んだ判断を敗因として、「敗北の責任は連合艦隊司令部も同罪」と語っている [] 。.

敵艦隊を発見した報告があった際、攻撃隊は艦船攻撃兵装から陸上攻撃兵装に換装中だったため、南雲は艦船攻撃兵装への再転換を命じた。二航戦司令官山口少将は、準備中の陸用爆弾のままで攻撃させるように意見具申したが、却下された [] [] 。参謀長 草鹿龍之介 少将によれば、九七艦攻を雷装に戻すよう命令した南雲長官の判断は命中率の差があったという。九七艦攻の艦船攻撃方法には、爆弾の水平爆撃と魚雷攻撃の2つがあるが、水平爆撃の命中率は10パーセント前後であり魚雷攻撃は60パーセント以上だった [] 。. この判断を下した南雲司令部の回想は以下の通り。草鹿参謀長によれば、敵の来襲状況を見ると敵は戦闘機をつけずに面白いように撃墜され、全く攻撃効果をあげておらず、これを目前に見ていたので、どうしても艦戦隊を付けずに艦爆隊を出す決心がつかなかったという [] 。航空参謀 源田実 中佐は、当時入手していた敵空母の位置(誤情報)は味方からまだ約海里離れており、敵の艦戦は航続力不足でついてこられず、敵が艦戦を伴わないとすれば上空の警戒機で十分に防御できる、敵空母の攻撃隊が戦闘機を付けて来るとすれば、もっと距離をつめる必要ができるため、時間的余裕があると判断した [] 。また、図上演習ならば文句なしに第一次攻撃隊を見捨てたが、苦楽を共にしてきた戦友達に「不時着して駆逐艦に助けてもらえ」とは言えず [] 、機動部隊が移動すれば、不時着した搭乗員達は見殺しになるので歴戦の搭乗員達の回収を優先させることを進言し、部下の生命を惜しんだために決定的な敗北に終わったと語っている [] 。航空参謀 吉岡忠一 少佐は「いままでの防空戦闘の成果からみて、敵機の来襲は艦戦で防御できると漠然と判断していた。また敵空母までの距離はまだ遠いので、次の来襲はミッドウェーの航空兵力であろうが、それにはまだ相当の時間的余裕があると判断した。さらに攻撃は大兵力を集中して行なう方が戦果も大きく損害も少ないので、若干攻撃隊の発進を遅らせても、大兵力が整うのを待つ方が有利であると考えた。この決定は司令部内では問題もなく簡単に決まった」と語っている [] 。.

南雲中将には陸用爆弾への兵装転換を下令してから30分しか経っていない上、防空戦があり、飛行甲板も使えなかったため、転換作業はほぼ進んでおらず、雷装に簡単に復旧できるという判断があったという意見がある [] 。しかし、兵装復旧を命令したものの防空戦が続いたため、南雲中将の予想に反し復旧作業は進捗しなかった [] 。当時の進捗状況については、空母に搭載されていた航空兵装運搬用の台車の数や、海戦前に第二航空戦隊が行った兵装転換実験での所要時間から考えても、兵装転換を開始した午前4時15分()から一時中止を命令した午前4時45分()までの間に赤城と加賀の兵装転換はそれぞれ1個中隊(9機)が済んでいただけではないかという意見もある [] 。一方、整備員や乗組員たちの懸命の作業で南雲司令の予想に反し兵装転換はかなり進んでおり、九七艦攻の大半が陸用爆弾の搭載を終えていたとの意見がある [] 。赤城に搭乗していた第二次攻撃隊の電信員も、5時40分()頃、赤城艦内で(17機中)15~16機の九七艦攻の陸用爆弾の搭載が完了していたと回想している [] 。第一次攻撃隊の収容が終わった6時半()頃、「一航戦の雷装艦攻は7時30分()発進可能、二航戦の艦爆隊は7時30分()ないし8時()に可能」との報告があったが、加賀で発進準備の完了を待っていた艦攻隊分隊長の牧大尉によれば、7時20分()の時点でも「(換装終了まで)あと小一時間かかる」という状況だったという [] 。二航戦の飛龍、蒼龍においてもミッドウェー攻撃隊を収容した事で九七艦攻への魚雷の装備を開始することとなった。蒼龍艦内で兵装転換作業に当った整備兵も、戦闘中の艦では平常航海中のように順調な作業はできず、右に左に転舵する蒼龍の動きに「どうなってるんだ」と途方に暮れ、作業は遅々として進まなかったと述べている [] 。赤城艦内で兵装転換を行った整備兵は、度重なる兵装転換で疲労が溜まった上、回避運動で揺れる艦内では「気は焦っても体は伴わなかった」と証言している [] 。.

同様の兵装転換作業がミッドウェー海戦の2か月前の セイロン沖海戦 でも発生しており、その戦訓を生かせなかったという批判もある [] 。ただ、セイロン沖海戦では1時間半では済んだものがミッドウェー海戦では2時間でも完成しなかった。敵襲を考慮しても2時間あれば十分で、原因としてミッドウェー海戦では直掩戦闘機の補給も同時に行っていたことが挙げられる [] 。また、第一航空艦隊はこの海戦において敵の来襲の無い好条件下でも艦攻の出撃が間に合わなかったので、兵装転換の実験を飛龍で実施した。問題の通常爆弾から魚雷への転換は2時間という結果が出ている [] 。飛龍で実験が行われたことから、艦長の 加来止男 大佐から [] 、あるいは第二航空戦隊司令官の山口少将から何らかの改善に関する報告があって、問題を未然に防ぎえたかもしれないという意見もある [] 。兵装転換に関しては、加来艦長が飛龍の整備兵に対し転換作業の訓練を行い、陸用爆弾から通常爆弾への転換なら30分以内に完了できるまで上達していたが、それも5月に大幅な人事異動があったため訓練は振出しに戻っていた [] 。飛龍の航空整備兵は「バカな命令を出したなと思った。爆装から雷装への転換なんて一度も訓練をした事がないのに、偉い人はそんな事も考えていなかったんだろう」と述べている [] 。.

南雲司令部は、 偵察 を1回のみの一段索敵として巡洋艦の水上機が割り当てられ、空母艦載機が出した索敵機は 九七艦攻 2機のみである。この索敵計画の立案を担当した 吉岡忠一 少佐は「当時攻略作戦中敵艦隊が出現することは、ほとんど考えていなかった。そのため、索敵は厳重にするのがよいことはわかっていたが、索敵には艦攻を使わなければならないので、攻撃兵力が減り、惜しくて索敵にさけなかった。全く情況判断の甘さが原因である」と語っている [70] 。一段索敵と決めた参謀長草鹿龍之介は「攻撃兵力を増やそうとして偵察を軽視した」と語っている [] 。. 南雲司令部の草鹿龍之介少将、源田実中佐、淵田美津雄中佐は、二段索敵にするべきだったと戦後語っている [] [ 信頼性要検証 ] 。吉岡参謀は索敵の密度をもっと濃くするべきだったと反省している []. もっとも、索敵計画はこれまでの経験から早くに出すように改善はされていた [] 。そのため、利根の4号機がカタパルトの故障がなく定刻に発進し、偵察搭乗員に気の緩みがなければ、索敵計画に問題はなかったという指摘もある [] 。利根の4号機が定刻に発進した場合、 コンパス のずれによる実際の索敵線から計算すると敵位置を飛び越えていて発見できないが [] [] [ 要ページ番号 ] 、コンパスの故障がなく定刻通り発進し、計画通りの索敵線を進めば30分早く発見できる [] 。また、利根の四号機が報告した敵空母位置は誤りであり、これに第一航空艦隊、第八戦隊司令部、利根が気付かなかったことは、南雲中将の戦闘指導に大きな影響を与えている [] 。.

利根には カタパルト が2基あったにもかかわらず、索敵機の発進が遅れた。その理由について、軍令部参謀だった宮崎勇の調査によると、利根では水兵を整列させて尻を棒で叩く制裁が常態化して士気が低下しており、故障していないカタパルトを担当する乗組員が動かなかったという [3] 。. 筑摩の機も敵艦隊を見逃した。筑摩の機長兼飛行長の 黒田信 大尉によれば、敵艦隊が発見された地点は自分のところだが、敵方天候不良で見逃したのは仕方なかったという。しかし、アメリカの資料では天候不良ではなく第四索敵線機も発見しているので、索敵機の雲上飛行が原因であった [] 。また、南雲が夜戦を検討している時も、索敵機からの敵情報告はくるくる変わり、南雲を悩ませ [] 、苛立たせただろうという意見もある [] 。. GHQ戦史室長だったプランゲは、そもそも日本海軍では航空偵察に使用する兵力は全力の1割以内であり、特別な教育や訓練もなく、艦上偵察機の価値を認識しておらず、あらゆる作戦で南雲に不利になっていたこと、セイロン沖海戦で索敵機の回収に必要な電波を発したことで、自分の艦隊位置が露見して航行中に英軍爆撃機の奇襲を受けたせいで索敵を必要最小限にしていたこと、ミッドウェーの索敵でさらに時間を早めると、ミッドウェー島に事前偵察に向かった第二索敵線の加賀機がミッドウェー島に届かなくなること、そして連合艦隊からの情報で敵機動部隊はミッドウェーにいないものと思い込んでいたことから、索敵計画はミッドウェー島に対する攻撃に重点を置いたものと指摘している [] 。これに対し、プランゲの著書『ミッドウェーの奇跡』を翻訳した 千早正隆 は、インド洋作戦での南雲艦隊は、 ソマービル 中将旗下の イギリス東洋艦隊 に待ち伏せされており、ミッドウェーに近似した状況だったことをプランゲが認識していない点がその著書の問題として、その著書の編集者からも賛意を得られたと主張している [] 。千早は、セイロン沖海戦で南雲機動部隊のごく近くにソマービル中将旗下のイギリス東洋艦隊が存在し、南雲司令部ではソマービルが放った 複葉機 を発見していながら索敵を行わなかった事について取り上げ、索敵の怠慢は繰り返されたものと批判している [] 。.

南雲機動部隊は 赤城 、 加賀 、 蒼龍 、 飛龍 の空母4隻に対し、護衛艦は 霧島 、 榛名 の戦艦2隻、重巡2隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻、油槽艦8隻であった。. 機動部隊の海里(約km)後方に、 大和 、 長門 、 陸奥 の戦艦3隻、空母 鳳翔 、特殊潜航艇母艦 千代田 、水母、軽巡各1隻、駆逐艦22隻の主隊、および 伊勢 、 日向 、 扶桑 、 山城 の戦艦4隻、軽巡1隻、駆逐艦12隻の警戒部隊からなる、山本五十六率いる主力部隊、そして、 金剛 、 比叡 の戦艦2隻、空母 瑞鳳 、 千歳 含む水母2隻、重巡8隻、軽巡2隻、駆逐艦21隻、輸送艦12隻の攻略部隊が続くという編成であった。この編成では当初の予定通りミッドウェー攻略作戦を行っていたとしても機動艦隊のみで戦うことになってしまい、後衛の主力艦隊は全く役に立たない。.

そもそも一航艦は艦隊全体が建制化されていなかったため、南雲中将は部隊としての思想統一や訓練に苦しみ、建制化を望んでおり、連合艦隊も要望して軍令部も必要性を認めていたが一航艦では実現せず、ミッドウェー海戦の戦訓を取り入れた後継の第三艦隊から建制化された [] 。. 空母の集団使用は、指揮運用が容易でしかも攻撃力の集中が可能である利点があるが、攻撃を受ける際に一挙に損害を被る危険性があることが最大の欠点である [] 。海戦後、軍令部次長以下と連合艦隊司令部の打ち合わせにおいて、問題だった点として「空母が団子になっていた」こと(集団使用)が挙げられている。しかし、当時の無線電話の現状や無線封止、警戒艦数から見ても分散配備は却って不適当であったと『 戦史叢書 』では指摘されている [] 。また、打ち合わせでは、艦上戦闘機をミッドウェー基地への攻撃隊の援護に使い過ぎたことも言及されている。もっとも、 第一航空艦隊 はミッドウェー基地の航空兵力を捕捉撃滅することが主目的であるため、援護に機数を割くのは必要なことであり、連合艦隊も承知していたことで所見にすぎない [] 。海戦後の検討で得られた戦訓には、四空母が同一の状況となり、戦闘機の発着、帰還した攻撃隊の収容などの混雑を招き、第二攻撃隊が発進する前に攻撃を受けたので、戦闘機の発着する艦を一艦に指定するほうが良いことや、攻撃隊の役割ごとで各艦に区分することが挙げられている [] 。.

一航艦の戦力としてミッドウェー作戦に参加する予定だった第五航空戦隊は、5月14日に五航戦から 珊瑚海海戦 の戦死者の報告があり、その損害があまりにも大きかったので、 翔鶴 と 瑞鶴 の両艦とも到底次期作戦に使えないことが判明した。さらに17日に 呉基地 へ帰港した翔鶴は修理に三ケ月は必要であることがわかった。こうして一航艦は3分の1の戦力を失った状態になったが、延期は認められずに実施が決定した [] [] 。偵察機も能力不足であった。 フロート 付きの 九五式水上偵察機 は速力、航続力も不十分であり、高速の 二式艦上偵察機 は蒼龍に2機用意されたが、まだ試作段階の機体であり、 液冷エンジン に故障が多かった [] 。. 日本はそれまでの勝利や誇大戦果を報じた珊瑚海海戦などで気が緩み、作戦の機密保持が杜撰になっていた。取り締まる立場にある連合艦隊もその傾向が出ていた [] 。また、連合艦隊は敵情が緊迫していることを知りながら前線部隊に知らせないことが何度もあった [] 。連合艦隊は、5月中旬から敵の通信が増加していることから何らかの動きがあると把握しつつも気にとめず、出撃から6月3日までに入手した情報から敵が日本の動静を偵知して活発に動いていると判断するも、警戒すべきではあるが、敵をおびき出せるものと受け止め好ましいことだと考えていた [] 。第二艦隊の 白石萬隆 参謀長は、連合艦隊は作戦がばれてでも米艦隊を呼び出そうとしていたと語っている [] 。6月4日頃、連合艦隊は大本営の知らせあるいは通信符号の傍受でミッドウェーに機動部隊がいる兆候をつかんでいたが、無線封止を理由に一航艦に知らせなかった [] 。.

また日本は太平洋にある米空母は3、4隻と考えていたが、珊瑚海海戦で米空母2隻撃沈、 マーシャル諸島 南方で西航する米空母2隻発見の情報から、残っている米空母2隻は全て南太平洋のハワイ方面にあると誤った敵情判断をしていた [] 。. アメリカ海軍は戦術情報班ハイポ(HYPO)を重用し、日本海軍の暗号解読と無線傍受でミッドウェー作戦を事前に把握して迎撃準備を整えていた。日本の「 海軍暗号書D 」系統は 戦略常務用一般暗号書 でよく用いられていたが、乱数表を用いて二重に暗号化した複雑な暗号であり、これに特定地点表示表、特定地点略語表、歴日換字表を併用したものではあったものの、開戦前から使用していたうえ、作戦前に行われる予定であった更新も遅れ、作戦概要や主力部隊以外のすべての参加艦艇などの作戦全体像がアメリカにほぼ察知されていた [] 。. ニミッツは4月下旬には日本が大規模な作戦を企図していることをつかみ、ミッドウェーの可能性が高いと判断した。5月2日からミッドウェーで環礁視察し、兵力、警戒態勢を整え、その後の情報でさらにミッドウェーの感が強まった。5月14日第二艦隊司令部がAF攻略部隊にあてた電文を傍受して攻略があると知り、19日にはAFを特定するためにアメリカは「ミッドウェーで真水製造機が故障」の偽の電文を傍受させ、罠にかかった軍令部は「AFで真水欠乏」という電文を打ち、アメリカはAFをミッドウェーと特定した。26日には攻略が6月7日であることも特定し、日本の作戦を把握して態勢を整えミッドウェー海戦で一航艦の迎撃に成功した [] 。.

この時期の日本海軍航空隊の搭乗員の精強さについては、 日中戦争 ( 支那事変 )以来の戦果に対する大きな自信と長い実戦経験があり、さらに日米戦争開戦後は「真珠湾以来すべて完勝してきた」との自信もあった。そのため、珊瑚海海戦で空母同士の決戦を初めて経験し、訓練された敵の空母部隊と交戦して大損害の後も、敗北 戦術的には 日本の勝利 の検証さえ十分に行わなかった。第一航空戦隊(赤城、加賀の飛行隊)のパイロットたちも「珊瑚海で米艦隊を撃ちもらしたのは5航戦がだらしないからだ」「妾の子でも勝てたのだから、自分達なら問題ではない」と信じていた [] 。当時の一航艦を含む日本海軍は、南方作戦において、爆撃、雷撃で高い命中率をあげていたことで、敵の戦闘機の妨害や敵艦艇の防御砲火にあまり関心を払わなくなっており、敵の戦力を軽視したという指摘もある [] 。ただ、敵の戦闘機による妨害に関しては、第一航空艦隊自身の直掩機の有効性から重視されている [] 。.

連合艦隊は過信から、日本の機動部隊が最強なので、たとえ敵情判断が間違っていても簡単に処理してくれるだろうと考え、作戦は奇襲成功が前提、索敵も不十分であり、知敵手段が崩れても対応せず、意図がばれてもかえって敵機動部隊を誘出し撃滅できると甘い判断で行われた。しかし開戦前の図上演習で複数の航空参謀が見通しの甘さを指摘し、作戦計画の修正を求めている。航空作戦においても索敵は念のため程度であり、ミッドウェーの航空基地制圧にも艦上攻撃機の全力が使用されなかった [] 。また、機動部隊の草鹿参謀長も、敗因は何より機動部隊の慢心にあるとし [] 、またこの慢心は日本全体に及んでおり機密保持が全く不徹底なものであったと語っている [] 。. 日本の空母は防御力が弱く、また防御に関する研究、システム、訓練も不足していた。これは海軍全般の傾向であった。空母の防空指揮組織も完備しておらず、無線も不良、戦闘機、援護艦艇、見張りも、消火訓練も不足。航空戦訓練も全ては攻撃に集中していた [] 。.

赤城は、爆弾2発直撃で大破したが、これは第二次大戦で撃沈された正規空母のうち最も少ない被弾数である。これについては後部命中の爆弾は命中せず至近弾の可能性もある [] 。 反面、アメリカ軍のヨークタウンは第一次攻撃隊の急降下爆撃時に被弾したがすぐに復旧し、第二次攻撃隊が無傷の空母と誤認するほど回復していた。また、第二次攻撃隊によっても被弾したが(両攻撃で計3発)自力航行可能なまでに復旧している。この艦船被害時の回復力の違いが明暗を分けたとの指摘がある [] [ 信頼性要検証 ] 。. 戦後、日本の空母三隻が被弾、炎上する直前に赤城では攻撃隊の戦闘機が発進しようとしており、あと5分あれば攻撃隊は発艦できたとする話が紹介された [] 。これは「運命の5分間」として広まったが、第一航空艦隊参謀長だった 草鹿龍之介 が『 文藝春秋 』の昭和24年10月号に書いた手記「運命の海戦 ミッドウエイ洋上、五分間の遅れが太平洋全海戦の運命を決した!!

しかし、 戦史叢書 『ミッドウェー海戦』には、第一航空艦隊の戦闘詳報を元に「この時点で攻撃隊の発艦準備は終了していない」と記載されており、に出されたとされる発艦命令はに出された「上空直掩機は準備ができ次第発艦せよ」という命令が誤解して広まったものだとしている。また、各空母の複数乗員は「攻撃隊は並んでいなかった」「上空直掩を行う戦闘機の準備がなされていた」という回想を残している [] 。第一航空艦隊航空参謀だった 源田実 も5分説を採用していない [] 。赤城雷撃隊の松田憲雄電信員は、ちょうど「第二次攻撃隊員整列」のアナウンスがあり、搭乗員達が出撃前に お茶 を飲もうと一息ついた時だったと証言している [] 。蒼龍雷撃隊の森拾三兵曹は被弾後に搭乗員待機室から外に出た際に、「艦爆搭載のkg爆弾が格納庫の中で誘爆している」と聞いたという [] 。また、アメリカに残された赤城の日誌等の日本資料を調査したJ・パーシャルやA・タリーの調査では、Bが撮影した蒼龍、飛龍、赤城の飛行甲板の写真に航空機は並んでいない事から、山口の進言に従っていれば「運命の5分間」は避けられたとする説には無理があるという意見もある [] 。しばしば使用される「運命の5分間」というのは単なるたとえであって、実情が5分でないことは昔からわかっていてはるか以前から死語になっているという主張もある [] 。.

第一航空艦隊司令部航海参謀だった雀部利三郎は、5分間というのは草鹿のその場の実感だろうという [] 。. 戦史研究家の 戸高一成 は、草鹿らが戦後「あと少しで勝てた」という言い訳のため広めたと推測し、 大木毅 はアメリカ側でも「危機一髪のところで勝った」というストーリーの方が気分が良いため受け入れられたという見解を示している [3] 。. 作家の 澤地久枝 は、第一航空艦隊が第一次攻撃隊を発進させた直後に「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成をもって本日実施予定」という予令(信)を出した未公開資料を新発見したとして [] 、「運命の5分間」は信で兵装転換を始めて失敗したことを隠蔽するための誤魔化しと主張した [] 。これに対し、豊田穣(元海軍軍人で作家)は、信は戦史叢書で既に公開された情報であることを指摘 [] 。さらに5分説は海軍の定説と主張する澤地に対し、海軍軍人が作成した戦史叢書や代表的な海軍軍人である源田実は5分説と異なる立場を取っており、海軍の定説ではないとし、澤地の勉強不足を批判している [] 。また、赤城の風紀軍規担当だった芝山末男中尉は、予令で兵装転換を発動することはないし、そんなことをしたら大問題と述べている [] 。そのため、豊田は、たとえ予令で兵器員が独断で行動を開始したとしても、監督不行き届きかもしれないが、草鹿に責任はなく5分説で隠す必要もないと主張している [] 。.

戦後残された戦闘詳報には、午前2時20分に「敵情に変化なければ第二次攻撃は第四編成(指揮官加賀飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られたことが記載されている [] 。この戦闘詳報は、第一航空艦隊司令部の乙航空参謀だった 吉岡忠一 が海戦直後に作成した戦闘詳報から功績調査用に抜粋し書き直したとされるもので、吉岡の作成したものは残されていない [] 。.

元海軍航空隊のパイロットで、戦後は作家となった豊田穣は、3月2日に吉岡航空乙参謀に電話をし、信について質問した所、「司令部が出す航空に関する信号は全て航空参謀が文面を起案し、参謀長、長官の許可を取って発信するものだが、私(吉岡)は全然知らんし源田甲航空参謀も知らんだろう」との証言を得たと主張し、昭和58年の著書『豊田穣戦記文学集2 ミッドウェー海戦』で発表した [] 。また豊田は同著で、第一航空艦隊司令部の航海参謀 雀部利三郎 中佐、赤城の飛行士兼飛行隊士後藤仁一、加賀の飛行長 天谷孝久 、加賀の艦攻先任分隊長 牧秀雄 からもこの予令を知らないとの証言を得たと主張した [] 。.

作家の 森史朗 は、昭和51年3月19日に吉岡の元を訪ねて取材した所 [] 、「信は源田航空甲参謀の指示で吉岡が書き、草鹿参謀長、南雲司令を経た通常の手順で発信されたもの」 [] 、「第一航空艦隊の戦闘詳報に「本日敵機動部隊出撃ノ算ナシ」の箇所が記載されていない [] のは、南雲司令部にとってみっともない事実であったため隠蔽したから」との証言を得たと主張し、平成24年の著書「ミッドウェー海戦 第二部 運命の日」で発表した [] (吉岡は平成12年没)。. アメリカ海軍が日本海軍の暗号を解読して待ち伏せしていたことは、ミッドウェー開戦直後の6月7日、『 シカゴ・トリビューン 』紙と系列の『 ワシントン・タイムズ=ヘラルド 』紙において”Navy Had Word of Jap Plan to Strike at Sea. 第一航空艦隊(第一機動部隊) 司令長官: 南雲忠一中将. 連合艦隊 (主力部隊)  司令長官: 山本五十六 大将. 第一艦隊 (主力部隊)  司令長官: 高須四郎 中将.

第二艦隊 (攻略部隊)  司令長官: 近藤信竹 中将. 第一航空艦隊 (第一機動部隊)  司令長官: 南雲忠一 中将. 第六艦隊 (先遣部隊)  司令長官: 小松輝久 中将. 第17任務部隊 司令官  フランク・J・フレッチャー 少将. 第16任務部隊 司令官  レイモンド・A・スプルーアンス 少将.

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詳細は「 加賀 空母 」を参照. 詳細は「 蒼龍 空母 」を参照. 詳細は「 赤城 空母 」を参照. 詳細は「 飛龍 空母 」を参照. 詳細は「 三隈 重巡洋艦 」を参照. September , Proceedings , Vol. アジア歴史資料センター(公式) ( 防衛省 防衛研究所 ) Ref. A『週報』第号 昭和17年6月17日 「敵の『空母集団』殲滅」 Ref.

A『週報』 第号 昭和17年7月1日 「米本土に深刻な脅威」 Ref. C「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 1 」 Ref. C「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 2 」 Ref. C「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 3 」 Ref. C「昭和17年5月27日〜昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 4 」 Ref. C「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報 1 」 Ref. C「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報 2 」 Ref. C「昭和17年6月1日〜昭和17年6月30日 ミッドウェー海戦 戦時日誌戦闘詳報 3 」 Ref. C「昭和16年12月〜昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書 2 」 Ref. C「昭和16年12月〜昭和17年6月 加賀飛行機隊戦闘行動調書」 Ref. C「昭和16年12月〜昭和17年4月 飛龍飛行機隊戦闘行動調書 3 」(MI作戦出撃分含) Ref.

C「昭和16年12月〜昭和17年4月 蒼龍飛行機隊戦闘行動調書 3 」(MI作戦出撃分含) Ref. C「昭和17年4月1日〜昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1 ミッドウェー作戦 1 」 Ref. C「昭和17年4月1日〜昭和17年6月21日 輸送船鹿野丸の最後 其の1 ミッドウェー作戦 2 」 Ref. C「昭和17年5月1日〜昭和19年9月30日 特設船あるぜんちな丸戦時日誌戦闘詳報 巌嶋丸。敵潜に依る被襲撃報告 1 」 Ref. C「昭和17年5月15日〜昭和17年12月31日 第6艦隊戦時日誌戦闘詳報 1 」 Ref. C「昭和17年5月29日〜昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 1 」 Ref. C「昭和17年4月1日〜昭和17年6月30日 第4水雷戦隊戦時日誌 3 」 Ref.

太平洋戦争」制作委員会 編 『やっぱり勝てない? 太平洋戦争 日本海軍は本当に強かったのか』 並木書房 、年。 ISBN 。 横井俊之ほか 『空母二十九隻 日本空母の興亡変遷と戦場の実相』潮書房光人社、年。 ISBN 。 吉田昭彦 「ミッドウェー海戦に見る日米艦隊の蹉跌」『丸』第号、潮書房、年 『日米空母決戦ミッドウェー 運命の三日間!戦局を一変させた史上空前の大海空戦ドキュメント』学習研究社〈「歴史群像」太平洋戦史シリーズVol.

太平洋戦争 / 大東亜戦争. ロンドン海軍軍縮会議 オレンジ計画 排日移民法 防共協定 日中戦争 日独伊三国同盟 日ソ中立条約 東亜新秩序 日米交渉 仏印進駐 関東軍特種演習 ABCD包囲網 日蘭会商 帝国国策遂行要領 タイ・仏印戦争 ハル・ノート. マレー作戦 真珠湾攻撃 ニイハウ島事件 マレー沖海戦 タイ進駐 シンガポールの戦い フィリピンの戦い バターン死の行進 香港の戦い グアムの戦い ウェーク島の戦い 英領ボルネオ作戦 蘭印作戦 ビルマの戦い セイロン沖海戦 ティモール島の戦い ( 英語版 ).

アメリカ本土砲撃 ロサンゼルスの戦い フォート・スティーブンス砲撃 アメリカ本土空襲 日系人の強制収容 風船爆弾. 第二段作戦 FS作戦 ウォッチタワー作戦 フロリダ諸島の戦い ガダルカナル島の戦い イル川渡河戦 ヘンダーソン砲撃 ガダルカナル島撤収作戦 第一次ソロモン海戦 第二次ソロモン海戦 サボ島沖海戦 南太平洋海戦 第三次ソロモン海戦 ルンガ沖夜戦 レンネル島沖海戦 ビスマルク海海戦 ビラ・スタンモーア夜戦 ニュージョージア島の戦い い号作戦 クラ湾夜戦 コロンバンガラ島沖海戦 ベラ湾夜戦 第一次ベララベラ海戦 第二次ベララベラ海戦 ラバウル攻撃 ブーゲンビル島の戦い ブーゲンビル島沖海戦 ろ号作戦 セント・ジョージ岬沖海戦. アンダマン・ニコバル諸島占領 クリスマス島占領 マダガスカルの戦い 柳船 ストーンウォール作戦 遣独潜水艦作戦 モンスーン戦隊 コックピット作戦 オンボード作戦 ペナン沖海戦. オーストラリア空襲 ダーウィン空襲 シドニー港攻撃 第二次世界大戦中の日本のオーストラリア侵攻計画 ( 英語版 ).

珊瑚海海戦 ポートモレスビー作戦 ラビの戦い ビスマルク海海戦 カートホイール作戦 ラエ・サラモアの戦い フィンシュハーフェンの戦い アドミラルティ諸島の戦い ホーランジアの戦い 竹一船団 ビアク島の戦い 渾作戦 アイタペの戦い. K作戦 ミッドウェー海戦. アリューシャン攻略作戦 アッツ島沖海戦 アッツ島の戦い キスカ撤退 コテージ作戦. 南機関 日本軍の進攻 第一次アキャブ作戦 泰緬鉄道 チンディット 第二次アキャブ作戦 フーコンの戦い インパール作戦 ミイトキーナの戦い 拉孟・騰越の戦い イラワジ会戦 シッタン作戦.

マキン奇襲 マキンの戦い タラワの戦い ギルバート沖航空戦 マーシャル沖航空戦 クェゼリンの戦い – トラック島空襲 エニウェトクの戦い. 出典  旺文社日本史事典 三訂版 旺文社日本史事典 三訂版について  情報. 出典  精選版 日本国語大辞典 精選版 日本国語大辞典について  情報. 出典  旺文社世界史事典 三訂版 旺文社世界史事典 三訂版について  情報. 出典  株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について  情報. 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について 情報. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ミッドウェー海戦」の解説 ミッドウェー海戦 ミッドウェーかいせん Battle of Midway. ミッドウェー海戦 みっどうぇーかいせん 太平洋戦争中、日米両機動部隊の間で戦われた海戦。年(昭和17)4月の米機動部隊による本土空襲に衝撃を受けた日本海軍は、防衛ラインの拡張と米機動部隊への決戦の強要とを目的として ミッドウェー島 攻略戦を決定し、連合艦隊の総力をあげて同島周辺海域に出撃、6月5日には同島への空爆を実施した。しかし索敵活動を軽視したため反撃に出た米機動部隊の発見が遅れ、攻撃部隊の発進準備中に米急降下爆撃機の 急襲 を受けて大損害を被った。この海戦で日本側は赤城 あかぎ 、加賀、 蒼龍 そうりゅう 、 飛龍 の四主力空母と重巡一隻が沈没し航空機約機と多数の熟練パイロットを失ったのに対し、米軍の損害は空母一隻沈没、航空機機 喪失 にとどまり、その結果、制空・制海権の確保に支えられた緒戦における日本軍の優位は崩壊し、以後太平洋戦争は連合軍の 反攻 という新しい局面に突入する。 [吉田  裕 ].

ミッドウェー海戦 ミッドウェーかいせん. ミッドウェー海戦 ミッドウェーかいせん Midway.

 
 

ミッドウェー海戦

 
ミッドウェー海戦は、第二次世界大戦中の年6月5日から7日にかけて、中部太平洋上のアメリカ合衆国領ミッドウェー島付近で行われた海戦。同島攻略をめざす日本海軍をアメリカ軍が迎え撃つ形で発生。 ミッドウェー海戦とは、年6月に行われた、太平洋戦争の戦局が転換するきっかけとなった戦いです。日本海軍は、真珠湾攻撃で活躍した航空母艦(空母)など4隻を失う

 

ミッドウェー海戦. Yahoo!ニュース

 

目次 サイドバーに移動 非表示. ミッドウェー海戦 (ミッドウェーかいせん、 英語 : Battle of Midway )は、 第二次世界大戦 ( 太平洋戦争 )中の 年 ( 昭和 17年) 6月5日 ミッドウェー海戦 アメリカ合衆国 標準時 では6月4日)から 7日 (6月3日から5日とする見解もある [2] )にかけて、中部 太平洋 上の アメリカ合衆国 領 ミッドウェー島 付近で行われた 海戦 。同島攻略をめざす 日本海軍 を アメリカ軍 が迎え撃つ形で発生。日本海軍 空母機動部隊 と アメリカ海軍 空母機動部隊および同島基地航空部隊との 航空戦 の結果、日本海軍は投入した 空母 4隻とその 艦載機 約機の全て、および兵士ら3,名を失った。ミッドウェー海戦は ミッドウェー海戦 の一部であり、この敗北で同作戦は中止された [3] 。一方のアメリカ海軍は正規空母1隻と多数の航空機、および兵士ら名を失った。.

нажмите чтобы прочитать больше [4] 。しかし 連合艦隊司令長官 であった 山本五十六 海軍大将 は以前よりこれに疑問を持ち、対米戦になったら積極的な攻勢作戦をとるべきだと考えていた [5] 。大島一太郎 大尉 (後に 大佐 、 年 〈昭和3年〉 海軍水雷学校 高等科学生)の回想によれば、山本は 年 (昭和3年)に 海軍水雷学校 で「対米作戦は ハワイ を攻略するような積極作戦を採るべきである」と述べていたという。これは、日本が日本近海の艦隊決戦を望んだところで、アメリカ軍は時期・方面などを自主的に決めて攻撃することができるのだから無意味であり、勝つには短期戦、リスクを承知の上での積極的攻勢しかなく、早期に敵の主力を叩き、相手国の戦意を喪失させようとの判断からであった [6] 。実際、アメリカ海軍は、 年 (昭和16年)12月の 真珠湾攻撃 で主力の 戦艦 部隊を行動不能に陥れられたものの、無傷であった機動部隊による一撃離脱攻撃を各方面で繰り返し、哨戒でカバーしきれない日本軍を悩ませた [7] 。アメリカ軍の ミッドウェー海戦 による被害は小さかったが、連合艦隊は日本近海での艦隊決戦が困難であることに気付かざるを得なかった ミッドウェー海戦 。.

日本の 連合艦隊 は、真珠湾攻撃後は 南方作戦 に機動部隊主力を投入していた。 インド洋作戦 が実施され、 セイロン沖海戦 で 英国海軍 ミッドウェー海戦 インド洋 の英領 セイロン島 を攻略する作戦案が採用されなかった。このため、連合艦隊幕僚は第二段作戦の移行までに残された4週間で代替案を作成しなければならなかったが、 [9] 連合艦隊幕僚は戦争を早期終結できる作戦が思いつかなかった。連合艦隊幕僚は、これまで示した作戦案が 陸軍 部隊を用いるから反対されたと考えており、かといって守勢の困難性を認識していたために、海上戦力のみで行う攻勢作戦計画の立案を応急的に進めなければいけないと判断した。結果、 黒島亀人 連合艦隊先任 参謀 ミッドウェー海戦 ハワイ諸島 攻略を見据えた作戦計画を立案した [10] ミッドウェー海戦 同盟国 ナチス・ドイツ 支援を構想していたという意見もある [11] 。.

ハワイ攻略が企図できるようになるまで間隔が空くため、連合艦隊は MI作戦 を提案した。これはハワイ攻略の準備ではなく、つなぎであったが、この作戦によって米空母を撃滅できれば、ハワイ攻略作戦は容易になるとは見ていた [12] 。 軍令部 と連合艦隊司令部はこの作戦について対立した。軍令部はアメリカと オーストラリア (豪州)の シーレーン を断ち切る米豪遮断を企図して、 フィジー諸島 方面の攻略を計画していた [13] 。軍令部航空担当部員の三代辰吉 中佐 ミッドウェー海戦 FS作戦 ( ニューカレドニア島 とフィジー諸島の攻略)重視の立場を崩さなかった [14] 。連合艦隊司令部の黒島参謀と 渡辺安次 参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして、真珠湾攻撃で空母6隻の使用を認めさせた時と同様の交渉をしたが、話は進まなかった [15] 。大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、 伊藤整一 軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し、山本長官の意向を伝えた [16] 。伊藤次長はこれを踏まえてさらに審議を行い、FS作戦に修正を加え、連合艦隊の作戦案を採用することを4月5日に内定 [17] 、 永野修身 軍令部総長の認可も得て、ミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった [18] 。 古村啓蔵 ( 筑摩 艦長)は 同期 の 富岡定俊 軍令部作戦課長から、艦隊はミッドウェー攻略成功後に トラック基地 に集合、米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き、驚いていたという [19] 。.

さらに軍令部はミッドウェーと同時に アリューシャン列島 ミッドウェー海戦 AL作戦 実施を連合艦隊に諮り、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した [20] 。AL作戦の目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米 ソ 間の連絡を妨害し、 ソビエト連邦 領 シベリア にアメリカの航空部隊の進出を妨害しようとするものであった。当時、アメリカが大型爆撃機を開発したとの情報があった。 図上演習 においてアリューシャン方面からアメリカの最新大型爆撃機が /9843.txt 空襲 を行い、その一部が奇襲に成功するという結果が出ており、海軍部も連合艦隊もこの方面への関心を高めていた背景があり、連合艦隊も同意して第二段作戦の全体像が固まった ミッドウェー海戦 [22] 。軍令部第一部長 福留繁 によれば、「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した」という 横手市 天気 。.

B爆撃隊は、東京、 名古屋 、 大阪 を12時間かけて散発的に爆撃。 日中戦争 下の 中国大陸 で日本軍支配地域外への脱出を図り、 不時着 後に機体は放棄された。セイロン沖海戦で勝利した 南雲忠一 率いる日本機動部隊は 台湾 沖で第16任務部隊追撃命令を受けたが距離は遠すぎ、燃料を浪費しただけだった [25] 。. 空襲による被害は微小であったが、日本本土上空にアメリカ軍機が侵入したことは日本に大きな衝撃を与えた。また米艦隊を発見した際に、アメリカ軍が双発爆撃機を用意していたことまでは見抜けなかったため、「米艦載機が来るなら航続距離からして翌日である」と油断したため、陸海軍はより大きな衝撃を受けた。国民の間でも不安が広がり、しばらく敵機来襲の誤報が続き [26] 、山本長官にも国民からの非難の投書があった [27] [注 1] 。.

山本長官は以前から、本土空襲を行われたときの精神的な影響を重視していたため、既に内定していたミッドウェー攻略作戦の必要をこの空襲で一層感じた。連合艦隊航空参謀 佐々木彰 によれば、山本長官は日本空母によるハワイ奇襲が企図できるのであるから、哨戒兵力の不十分な日本本土に対しても、アメリカもまた奇襲を企図できると考えていたようであるという [29] 。この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戦・アリューシャン作戦を重大視するようになり、陸軍兵力の派遣に同意、ミッドウェー作戦は日本陸海軍の総攻撃に発展した [30] 。 昭和天皇 の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき、アリューシャンからミッドウェーにわたる航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測や [31] 、二度目のドーリットル空襲を防ぐためにミッドウェー攻略作戦を急ぐ必要があり、空母 ミッドウェー海戦 を有する ミッドウェー海戦 の戦力が回復するのを待てなかったという推測もある [32] 。.

連合艦隊が計画したミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略し、アメリカ艦隊(空母機動部隊)を誘い出し捕捉撃滅することに主眼が置かれた。日本軍は同島をアメリカ軍の要点であり [33] 、占領した場合、軍事上・国内政治上からアメリカ軍は全力で奪回しようとすると考えた [34] 。一方、軍令部では、ミッドウェーは攻略後の防衛が困難で、わざわざ米空母が出撃して来るとは考えにくいと見ていた [13] 。. 作戦構想では現時点で豪州方面で活動している米空母部隊がミッドウェー近海に出撃する確率は高い、と計算していた。日本軍は情報分析の結果、アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した [35] 。. これを踏まえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を、「空母隻、 特設空母 隻、戦艦2隻、甲 巡洋艦 隻、乙巡洋艦隻、 軽巡洋艦 4隻、 駆逐艦 30隻、 潜水艦 25隻」と判断した [36] 。アメリカ軍が同島に 海兵隊 を配備し、 砲台 を設置して防衛力を高めていることも察知していたが、その戦力は「 飛行艇 24機、 戦闘機 11、 爆撃機 12、海兵隊、砲台20前後」または「哨戒飛行艇2コ中隊、陸軍爆撃機1乃至2中隊、戦闘機2コ中隊」であり [37] 、状況によってはハワイから「飛行艇60機、爆撃機機、戦闘機機」の増強もあると推測 [38] 。同島占領作戦実施の際にはアメリカ軍基地航空隊からの空襲も想定していたが、直掩の 零戦 と対空砲火で排除できるとしている [39] 。日本軍が海兵隊名、航空機機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、空母部隊が全滅した後の 捕虜 の尋問結果からだった [40] 。.

作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を6月7日と決定して一切を計画した。 上陸用舟艇 で島のリーフを越えて上陸するため、 下弦月 が月出する午前0時を選んだ。7月は 霧 が多く上陸が困難なため、6月7日に固定した。 上陸作戦 の制空と防備破壊は3日前(後に延期で2日前になる)に南雲艦隊が空母6隻で奇襲することで可能と考えた。連合艦隊は奇襲の成功を前提にしており、アメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。米機動部隊の反撃は望むところであったが、米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。ミッドウェー島占領後、基地航空部隊の哨戒網で敵機動部隊を発見、一航艦は第二艦隊と協力してそれを攻撃、山本艦隊は機を見て参加し撃滅するというものだった [41] ミッドウェー海戦.

MI作戦の主目標はミッドウェー島攻略と米機動部隊(空母部隊)撃滅のどちらにあるのかはっきりしておらず、連合艦隊は米機動部隊撃滅を重視する発言をしていたが、軍令部は主目標を攻略による哨戒基地の前進にあると示していた。軍令部で作戦計画の説明を受けた第一航空艦隊参謀長 草鹿龍之介 少将 と第二艦隊参謀長 白石萬隆 少将は、 ドーリットル空襲 の直後だったため、哨戒基地の前進によって米空母による本土再空襲を阻止するものと抵抗なく解釈し、ミッドウェー作戦の主目的は同島攻略という強い先入観を得た。また、5月の 図上演習 で、陽動で米艦隊を他に誘導してミッドウェーを攻略する案が出たが、連合艦隊参謀長から、陽動をしたら米艦隊をミッドウェーに引き出せないとの意見が出た。この直後、軍令部に基づく大本営命令、総長指示で攻略が主目標に示されただけに、白石少将は連合艦隊の解釈が間違っているのではと思ったという。連合艦隊は出撃前に再び米艦隊の撃滅が目的と伝えるが、参加部隊には徹底して伝わらなかった ミッドウェー海戦 。.

戦後、草鹿は作戦目標が曖昧でミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し、「二兎を追うことになった」と表現している [43] 。 第一航空艦隊 源田実 中佐は、日本の兵力が分散し過ぎて目標を見失っており、集中という 兵術 の原則にも反していると感じたため、図上演習後の研究会で連合艦隊参謀 黒島亀人 に「作戦の重点をアメリカ艦隊撃滅に置くべきである。そのためにはアリューシャン攻撃部隊やあらゆる作戦可能な兵力を、たとえ第五航空戦隊(瑞鶴、 翔鶴 )が参加できるのを待ってもミッドウェーに集中すべきだ」と主張したが、黒島は「連合艦隊長官は一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。機動部隊の主要任務はミッドウェー攻略支援だ」と答えたため、アメリカ艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた [44] 。 ミッドウェー海戦 は、作戦目標がアメリカ軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし、 戦略 戦術 からいってどうにも納得できない部分があり航空主兵なのか戦艦主兵なのかも曖昧で、戦艦 ミッドウェー海戦 と山本長官が後ろからついてくる事も疑問だったという [45] 。.

この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現し、艦隊戦闘が行われ、日本の空母に大被害が出て、攻略作戦続行が難しい状況となったが、審判をやり直して被害を減らし、空母を三隻残した状況で続行させた [49] 。空母 加賀 、 赤城 は 爆弾 9発命中判定で沈没判定となったものの [50] 、 宇垣纏 連合艦隊参謀長は「9発命中は多すぎる」として爆弾命中3発に修正させ、赤城を復活させたなどである [50] 。ミッドウェー島攻略は成功したが、計画期日より一週間遅れ、艦艇の燃料が足りなくなり、一部の駆逐艦は 座礁 した [49] [51] 。宇垣は「連合艦隊はこうならないように作戦を指導する」と明言した ミッドウェー海戦 。 [注 2] このとき、攻略前に米機動部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったのだが、図上演習でアメリカ軍を担当した松田大佐は出撃させることはなかった [53] 。.

戦訓分科研究会において、連合艦隊司令部の宇垣参謀長は一航艦の草鹿参謀長に対し、「敵に先制空襲を受けたる場合、或は陸上攻撃の際、敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると、草鹿は「かかる事無き様処理する」と答えたため、宇垣が具体的にどうするのかと追及すると、 第一航空艦隊 (一航艦)の源田参謀が「 艦攻 に 増槽 を付したる 偵察機 を四五〇 浬 ミッドウェー海戦 零式水偵 を使用して側面哨戒に当らしむ。敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた [54] [55] 。そのため宇垣は注意喚起を続け、作戦打ち合わせ前に 第一航空艦隊 は第一波攻撃隊をミッドウェー島攻撃、第二波攻撃隊は敵艦隊に備えることとした [54] 。米機動部隊が現れた際に反撃するために第一航空艦隊(艦攻)の半数は 航空魚雷 装備となったが、連合艦隊首席参謀 黒島亀人 大佐は命令として書き込む必要はないと航空参謀 佐々木彰 中佐に指示した [56] 。.

研究会で作戦参加者から最も要望されたのが準備が間に合わないことによる作戦延期だった [57] 。 第二航空戦隊 司令官 山口多聞 少将と一航艦航空参謀 源田実 中佐は作戦に反対と食いついたが、連合艦隊司令部は聞く耳を持たなかった [58] 。4日の研究会で、第一航空艦隊参謀長草鹿少将と 第二艦隊 参謀長 白石萬隆 少将も作戦に反対したが、受け入れられず、5日に再び反対しに行ったが、第二段作戦を手交され、反対せずに帰った [59] 。第二艦隊長官 近藤信竹 中将は、米空母がほぼ無傷で残っており、ミッドウェー基地にも敵戦力があることからミッドウェー作戦を中止して、米豪遮断に集中すべきと反対した。しかし、山本長官は奇襲が成功すれば負けないと答えた。また、近藤中将は、ミッドウェー島を占領しても補給が続かないと指摘したが、宇垣参謀長は補給が不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え、攻略後の島の確保、補給については何ら考えられていなかった [60] 。占領後、他方面で攻勢を行い、アメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ10月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えていたという意見もある [61] 。.

図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく、高いリスクを伴う作戦であることを示したが、連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。特に山本長官は「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している [62] 。 第五艦隊 参謀長 ミッドウェー海戦 によれば、中澤が作戦会議で機動部隊と連合艦隊主隊の距離が離れすぎていることを指摘すると、黒島は問題ないと発言したという [63] 。.

出撃前日の5月26日、赤城において作戦計画の説明と作戦打ち合わせが行われた。山口少将から索敵計画が不十分という意見があった [69] 。索敵計画を立案した第一航空艦隊航空参謀 吉岡忠一 少佐によれば、当時の敵情判断から索敵計画は改めなかったという。吉岡は、攻略作戦中に敵艦隊が現われるとはほとんど考えていなかったのと、索敵を厳重にするのが良いのはわかっていたが、索敵に 艦上攻撃機 (艦攻)を使うのは攻撃力の低下を意味するので惜しくてできなかったとして、状況判断が甘かったと回想している [70] 。. この計画での一航艦司令部の心配は、攻撃開始日が決まっているので奇襲について機転を働かせる余地がなかったことと、空母は アンテナ の関係から受信能力が低いため、敵信傍受が不十分で敵情がわかりにくくなることであった。そのため、一航艦参謀長の草鹿少将は、連合艦隊司令部(主に旗艦の戦艦大和)が敵情を把握して作戦指示することを連合艦隊参謀長の宇垣参謀長に取りつけた [70] [71] 。 土井美二 中佐(第八戦隊首席参謀)によれば、草鹿参謀長が「空母は ссылка на страницу が低くて敵信 傍受 が期待できない。怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたという [72] 。.

ミッドウェー海戦 [73] 、4月下旬に日本本土に戻った 第一航空艦隊 (南雲機動部隊)は問題を抱えていた。開戦以来、 ドック 入りや長期休暇もなく太平洋を奔走したため、艦・人員とも疲労がたまっていた [74] 。さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため [75] 、艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた [76] 。.

ミッドウェー海戦後の 戦闘詳報 ジェノサイドとは [75] 。 雷撃機 ミッドウェー海戦 珊瑚海 に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評されている [77] 。 水平爆撃 と 急降下爆撃 は満足な訓練ができず、戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけ [78] 。着艦訓練は訓練使用可能空母が加賀のみだけだったため、新人搭乗員の訓練が優先され、ベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。戦闘詳報は「敵情に関しては殆ど得る所なく、特に敵空母の現存数、その所在は最後まで不明なりや。要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている [77] 。. 不安要素があったとはいえ、連合艦隊司令部、軍令部、南雲機動部隊のいずれも自信に満ち溢れていた [79] 。5月5日、永野軍令部総長より山本長官に対し 大海令 第18号が発令された [80] 。. 大海令第18号により、ハワイ攻略の前哨戦として山本長官、宇垣参謀長の指揮下で艦艇約隻、航空機約機、総兵力10万人からなる大艦隊が編成された。これは戦艦大和他の戦艦部隊( 第一艦隊 )が ミッドウェー海戦 の 柱島泊地 を出撃、参加する初めての作戦であった。.

淵田美津雄 中佐によれば、第一航空艦隊航空参謀源田実は当時、第一段階作戦の後始末でミッドウェー作戦を検討する暇も無かったと打ち明けており、草鹿参謀長に至っては真珠湾で戦死した航空機搭乗員の二階級進級問題の折衝で走りまわり(航空機搭乗員の士気に関わるため)、ミッドウェー作戦の研究どころではなかったという [81] 。草鹿は「準備期間が不十分で不満もあったが強く反対せず、何とかやれるだろうと考えていた。それよりハワイ攻撃の戦死者の2階級特進の方に関心があった」という [82] ミッドウェー海戦. 当初、瑞鶴、翔鶴を含む空母6隻の計画だったが、 珊瑚海海戦 の報告を聞いた時点で海軍首脳部は無傷の瑞鶴をミッドウェーに、大破した翔鶴を修理後アリューシャン作戦に回す予定であった。しかし翔鶴の修理には3ヶ月要し、また瑞鶴も無傷であったものの参加した搭乗員の損耗が激しく、トラック島に停泊、補充を待ちの状態で、本作戦に不参加となった [83] 。. これにより日本側の参加空母数が減ることとなったが、それでも隻数の上では4対3(日本軍は、エンタープライズ、ホーネット、 ワスプ 出現可能性考慮)と、アメリカ軍より優勢であった。ただしミッドウェー基地の航空機を計算に入れると、航空戦力比は日本軍「戦闘機、 急降下爆撃機 84、雷撃機94、艦偵2、 水上戦闘機 24、水上偵察機10、計 南雲部隊、近藤部隊、輸送部隊合計 」、アメリカ軍機動部隊「戦闘機79、急降下爆撃機、雷撃機42」、アメリカ軍基地戦力「戦闘機27、急降下爆撃機27、雷撃機6、飛行艇32、大型爆撃機23」総計機となって、ほぼ互角であった [84] 。.

ミッドウェー海戦 飛龍 では出発前に誰もがミッドウェー作戦を知っており、一般住民の方が乗組員より先に目的地を知っていたという証言もある [85] 。異動してきた 士官 が「今度はミッドウェーですね」と挨拶し [86] ミッドウェー海戦 [87] 。連合艦隊司令部も、ミッドウェー島占領後に配備予定の21機の 零戦 (第六航空隊)を4隻の空母に詰め込んだ [88] 。 野村留吉 大佐( блог, アニオタwiki замечательное 参謀)によれば、 海軍第二特別陸戦隊 は「6月以降、当隊あての郵便物は左に転送されたし。ミッドウェー」と 電報 を打ったという [89] 。また5月下旬に呉に戻った重巡洋艦 加古 の高橋艦長は、息子から近々行われる大作戦について教えてくれとせがまれ困惑していた [90] 。 白石萬隆 少将(第二艦隊参謀長)は「連合艦隊は、作戦目標を多少漏らすことで敵艦隊の誘出を図ろうとしていた」との見解を述べている [91] 。そして、連合艦隊長官山本五十六大将は、 愛人 の河合千代子と密会し、別離を惜しんだ後の手紙に「5月29日に出撃して、三週間ばかり全軍を指揮する。多分あまり面白いことはないだろう。この戦いが終わったら、全てを捨てて二人きりになろう」と記している ミッドウェー海戦 。.

作戦では日本側の事前索敵計画として перейти на источник までに2個潜水戦隊をもって哨戒線を構築する予定だった。しかし担当する 第六艦隊 (潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した3個潜水戦隊の内、第二潜水戦隊はインド洋での 通商破壊 戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・ アフリカ での作戦任務中、第一潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。.

このため、「大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが五潜戦は日本から クェゼリン への回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された 5月19日 時点)予定期日に間に合うのは不可能、三潜戦も所属の潜水艦の内3隻が第2次K作戦に充てられたため、両隊あわせて9隻の潜水艦が予定配置についたのは 6月4日 になってしまった。特に米海軍 第16任務部隊 が 6月2日 に五潜戦の担当海域を通過しており、本作戦における大きな禍根になった。. 次に予定されていたのは第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。これは 二式大艇 による ウェーク島 を経由した索敵計画であったが、ウェーク環礁が二式大艇を運用するには浅すぎ、経由地が ウォッゼ環礁 に変更された結果ミッドウェー全海域の索敵が不可能となった。更にパイロットの技量不足で夜間着水が困難であることから薄暮までには ウォッゼ環礁 に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(5月31日)が短縮された。これにより結局、米艦隊を発見する事は出来なかった。仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は非常に高かった。.

最後に計画され、連合艦隊が最も重視した第2次K作戦は、オアフ島西北西海里にある フレンチフリゲート礁 で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の二式大艇によるオアフ島の航空索敵である [93] 。第1次は3月に実施し、さらに二式大艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。しかし、アメリカ軍は日本軍の作戦を 暗号解読 で察知すると、海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。潜入した 伊号第百二十三潜水艦 は「見込み無し」という報告を送った [94] 。これを受け 第十一航空艦隊 は5月31日21時23分に作戦中止を二十四航戦に指示した。この偵察作戦が成功すればそれがもたらす成果は大きいはずだったが [95] 、大型機による夜間偵察では大型艦を空母と誤認する危険があった [96] 。また米空母の真珠湾在泊を確認できれば作戦の価値は極めて大きいが、米空母が不在であった場合は、5月末から6月初にかけての日本海軍の状況判断から見て、米空母はまだ南太平洋方面で行動中であろうと判断したのではないかという意見もある [97] 。6月1日、二十四航戦の司令部からミッドウェーの海里圏付近で敵の潜水艦や飛行艇と会敵したことと、第2次K作戦の中止が連合艦隊司令部、南雲機動部隊司令部に伝達された [98] [99] 。無線封止が重要視されたため連合艦隊司令部からは南雲機動部隊に作戦中止の連絡はしていない [] 。作戦中止に対し連合艦隊司令部から作戦再興の指示は出されなかった [] 。南雲機動部隊首脳部もK作戦の中止を大した問題とは考えなかった [98] [] 。連合艦隊参謀らによれば、知的手段は崩れたが、連合艦隊は米艦隊はハワイからの出撃が遅れるだろうと考えていたので大した心配はしていなかったという [] 。.

アメリカ軍は日本軍来襲の情報を収集・分析し、ミッドウェー作戦に備えていた。年3月4日、 太平洋艦隊 司令長官 チェスター・ニミッツ はオアフ島に日本軍の大型航空機( 二式飛行艇 )2機が爆撃を行い(K作戦)、同月11日にはミッドウェーに新型飛行艇(前同 ミッドウェー海戦 ロサンゼルスの戦い )なども影響している。.

真珠湾攻撃直前に変更された日本海軍の 戦略暗号 “D” は、アメリカ軍の諜報部よりJNと呼ばれていた。年4月頃には、ハワイ真珠湾に所在するアメリカ海軍 エドウィン・レイトン の情報班が、日本軍の暗号を断片的に 解読 し、日本海軍が太平洋正面で新たな大規模作戦を企図していることについても、おおまかに把握していた。この時点では時期・場所などの詳細が不明であった。その後、5月頃から通信解析の資料が増え、暗号解読との検討を繰り返して作戦計画の全体像が明らかになると、略式符号「AF」という場所が主要攻撃目標であることまでわかってきた。しかし「AF」がどこを指しているのかが不明であった。アメリカ側は、 [] [ 信頼性要検証 ] /45116.txt. ミッドウェー海戦 アメリカ統合参謀本部 は攻撃目標をハワイ、陸軍航空隊では サンフランシスコ だと考え、また アラスカ 、米本土西岸だと考える者もいた。5月中旬になっても決定的な情報は無かったが、ニミッツ大将は各種情報と戦略的な観点からミッドウェーが目標であると予想し、ハワイ所在のレイトン情報主任参謀らも次第にミッドウェーが目標であるとの確信を深めていった。.

日本側にも「6月1日における第三部特務班の判断」として「ミッドウェー島が清水不足を訴えている」と軍令部作戦課佐薙毅中佐の日誌に残されている [] 。一方、このエピソードについては、実際の暗号解読状況や手法を秘匿するための粉飾とする説もある。沈没する空母飛龍から脱出後、アメリカ軍に救助され捕虜となった相宗邦造中佐ら機関科兵34名は、アメリカ軍情報士官から年5月に就役したばかりの 飛鷹型航空母艦 隼鷹 の写真を見せられて仰天している [] 。萬代久男少尉によれば、「隼鷹」の写真は軍極秘回覧簿で見たものと全く同じであった。萬代は暗号解読云々よりも、むしろ連合軍諜報活動の方が連合軍の情報戦勝利に影響を与えたと述べている [] 。.

ハワイ諸島は、アメリカにとって太平洋正面の防衛・進攻の戦略的に重要な根拠地であった。ミッドウェー島はハワイ諸島の前哨であり、戦略的要衝である。ニミッツ大将は日本軍の来襲の危険性があるミッドウェーを5月3日に視察し、同島守備隊の指揮官シマード海軍中佐と防備の強化について打ち合わせた。このとき、シマード中佐は兵器と人員が充足すれば防衛は可能であると意見を述べ、ニミッツ大将はシマード中佐の要望通りの補強を行うことにして防備を固めようとした。こうして、ミッドウェー島に集結した航空機は当時最新鋭の TBF雷撃機 を含む約機、アメリカ海兵隊を含む人員の補強は人に達し、 防爆掩蓋 や砲台も配備していた。陸上部隊は士気が高かったが、航空部隊は寄せ集めが多く、また整備員の増強がなかったために搭乗員自ら整備・燃料補給を行うなど、完全に充足した部隊ではなかった。それでも、 日本海軍陸戦隊 名の上陸を撃退するには十分な兵力だった [] 。.

ハワイの情報隊は、日本海軍のミッドウェーへの攻撃が6月3日から5日までに行われることを事前に察知し、日本側が陽動作戦として計画していた、空母 龍驤 と 隼鷹 を中心とする部隊をアリューシャン方面に向かわせて アッツ島 、 キスカ島 などを占領、 ダッチハーバー などを空爆する作戦も陽動であることを事前に見抜いており、ニミッツ大将はこれらの情報に基づいて邀撃作戦計画を立案した。日本軍の兵力は大きく、ニミッツ大将の指揮下にある使用可能な戦力を全て投入しても対抗するためには不足が大きかった。そのため、アリューシャン・アラスカ方面には最低限の戦力を送るにとどめ、主力をミッドウェーに集中することにした。. フレッチャー 少将の第17任務部隊は、珊瑚海海戦において ポートモレスビー 防衛を成功させ、日本海軍の источник статьи 1隻( 祥鳳 )を撃沈。主力空母(翔鶴)にもダメージを与えたものの、自身も主力空母 レキシントン を失い、 ヨークタウン が中破していた。ヨークタウンへの命中は爆弾1発のみであったが、排煙経路を破壊される重大損傷で、機関からの燃焼煙を正常に排出できず ボイラー が出力を上げられず、速力が24ノットに低下 [] 。また、2発の至近弾で左舷燃料タンクから燃料が漏れ出していた。特に珊瑚海海戦では艦隊付属の 油槽船ネオショー を失い、この燃料漏れは海上での立ち往生になりかねなかった [] 。.

ニミッツ大将は、日本軍の侵攻に備えて太平洋南西部よりフレッチャー少将の第17任務部隊をハワイに呼び戻した。途中で何とか燃料を補給できたヨークタウンは5月27日に真珠湾に到着、直ちに 乾ドック に入れられて突貫の応急修理工事が実施された。特に燃料タンクの損傷については、アメリカ西海岸の ワシントン州 ミッドウェー海戦 港にて長期の修理を行う必要があるとの見通しがあったが、ハワイでの72時間の不眠不休の作業によって、空母としての機能を取り戻し、5月30日に乾ドックを出た。出撃時、艦には修理工が乗ったままであり、戦場へ向かって航行中も修理が続けられた。この応急修理について乗組員は「いいかげんな間に合わせ」と評している [] 。ヨークタウンを母艦とする第5航空群は珊瑚海海戦で損耗していたため、修理のために本国に戻るサラトガの第3航空群と入れ替えられた。これで当時のアメリカ海軍太平洋艦隊が投入できる空母戦力の全てがミッドウェーの戦いに参戦する形が整えられた。.

ミッドウェー海戦 [] 。. 日本時間6月3日午前10時30分、南雲機動部隊は深い霧の中で混乱し、旗艦赤城は飛龍、蒼龍と2戦艦( 榛名 ミッドウェー海戦 霧島 )の艦影を見失った [] 。飛龍と霧島は衝突しかけたため、司令部では無電を使用するかどうか議論があったが、 長波 無電を使用して艦隊の針路を定めた [] 。無線の使用によりアメリカ軍が南雲部隊の行動を察知したという説が日本側にあるが、アメリカ軍側にこの通信を傍受した記録はない [] 。6月4日午前3時37分、南雲部隊は補給隊と駆逐艦 秋雲 を分離した [] 。午前10時25分、南雲司令部は各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし、制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している [] 。午後4時30分、赤城と利根がアメリカ軍機らしき機影を発見すると、赤城から3機の零戦が発進して迎撃に向かった [] 。南雲機動部隊は、誤認の可能性が高いと判断している [] 。午後11時30分、赤城は雲間にアメリカ軍機を発見して総員を戦闘配置につけたが、その後は平穏に過ぎた [] ミッドウェー海戦 [] 。.

アメリカ軍は5月30日以降、ミッドウェー島基地航空隊の32機の PBYカタリナ 飛行艇による哨戒が行われていた。6月2日、フランク・J・フレッチャー少将の第17任務部隊と レイモンド・スプルーアンス 少将の第16任務部隊がミッドウェー島の北東で合流。この合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。6月3日()、カタリナ飛行艇1機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戦隊を発見する [] 。()、ミッドウェー島から第7陸軍航空部隊分遣隊の B爆撃機 9機(指揮官:ウォルター・スウィーニー中佐)が発進、攻撃に向った [] 。日本時間6月4日午後1時()、船団を発見したB部隊は爆撃を開始し、戦艦、空母、輸送船など、多数の艦艇撃破を報告した [] 。実際は輸送船 あるぜんちな丸 、霧島丸が至近弾を受けたのみで損害も無かった [] 。. ミッドウェー基地からの艦隊発見の報を受け、米太平洋艦隊司令部は、Bが攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し、第16・17両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて攻撃に向わないよう緊急電を打った [] 。フレッチャー司令官も同じ判断を下し、行動を行わなかった。午後4時50分 には予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している [] 。この段階では、フレッチャーとスプルーアンスも南雲機動部隊の位置を把握していなかった [] 。.

日本時間6月4日午後10時30分(現地時間6月4日)、米空母では航空機搭乗員に朝食が出され、その後、出撃待機となり命令を待った [] ミッドウェー海戦 SBD ドーントレス爆撃機 からなる偵察隊が航空偵察に出撃した [] 。ウォリィ・ショート大尉の隊は日本軍水上偵察機1機と交戦したと報告した [] 。この時点で南雲機動部隊は、ヨークタウンから西方海里を航行している [] 。. 日本時間6月5日午前1時30分 、南雲機動部隊はミッドウェー空襲隊( 友永丈市 大尉指揮: 零式艦上戦闘機 36機、 九九式艦上爆撃機 36機、 九七式艦上攻撃機 36機、合計機)を発進させた [] 。本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが、淵田は 虫垂炎 による 手術 を行ったばかりなので出撃できなかった [] 。源田実航空参謀も 風邪 により熱を出していた [] 。日本軍は「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始する [] 。近藤中将の攻略部隊(第二艦隊)がミッドウェー島に上陸する日は6月7日と決定されており、南雲機動部隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪わなければならなかった [] 。奇襲の成立が前提にあり、空襲の攻撃主目標は地上・上空の飛行機、副目標が 滑走路 ミッドウェー海戦 支那事変 (日中戦争)の戦訓から長期間使用不能にすることが困難であるから、また、艦爆が対空砲火による被害が大きいことも支那事変でわかっていたが命中率の良さから採用し、 キロ爆弾 は開戦後の経験から陸上攻撃に大きな効果があることが分かっていたため採用したという [] 。.

各空母からの発艦機数は、赤城から零戦9機、九九艦爆18機、加賀から零戦9機、九九艦爆18機、蒼龍から零戦9機、艦攻18機(キロ爆弾装備)、飛龍から零戦9機、艦攻18機である [] 。このうち、飛龍艦攻1機(赤松作 ミッドウェー海戦 [] 。四空母に残った戦力は、零戦36 各艦9 、艦爆36 飛龍18、蒼龍18 、艦攻41 赤城17、加賀26 であった [] 。一航戦の艦攻には航空機用魚雷、二航戦の艦爆にはキロの通常爆弾が装着され、各空母格納庫で待機 [] 。アメリカ側記録には、二航戦は セイロン沖海戦 の戦訓を踏まえ陸上攻撃・艦船攻撃どちらでも対応できるようにするため未装備状態だったとする意見もある(何れのアメリカ側記録資料、研究者によるかは不明) [] 。. また偵察機として赤城 ミッドウェー海戦 利根 、 筑摩 から 零式水上偵察機 各2機、戦艦 榛名 から 九五式水上偵察機 が発進した [] [] 。索敵機の発進は日の出の30分前、午前1時30分と定められていた [] 。だが 第八戦隊 司令官 阿部弘毅 少将の判断で利根は 対潜哨戒 につく 九五式水上偵察機 の発艦が優先された [] 。このため筑摩機は 午前1時35分(第5索敵線)、 午前1時38分(第6索敵線)に 零式水上偵察機 が発進、 04:50 午前1時50分に対潜哨戒機発進 [] [] 。利根は( 午前1時38分に対潜哨戒機、 午前1時42分(第3索敵線)、 午前2時(第4索敵線)にそれぞれ水偵が発進した [] ミッドウェー海戦 。戦闘詳報には「利根、筑摩とも出発著しく遅延す」「筑摩6号機は天候不良のため午前3時35分に引き返せり」という記載がある [] [] 。.

筑摩の遅れは、機長兼飛行長の 黒田信 大尉によれば、待機していたが艦長から発艦命令がなかったので催促したという。艦長の 古村啓蔵 大佐によれば、発艦が遅れた理由は思い出せないが催促されて判断し発艦させたという [] 。利根の遅れは、通信参謀 ミッドウェー海戦 と飛行長 武田春雄 посмотреть еще 土井美二 中佐によれば、なにか滑走車のピンが抜けた入らないで騒いでいた気がするという [] 。.

最後に各空母より零戦1個小隊3機が直掩 援 のため出撃した。このうち、加賀の零戦1機が故障のために飛び立てず合計11機となる。そして南雲艦隊は針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。午前2時20分 ミッドウェー海戦 [] 。これは米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更し、ミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。仮に第二次攻撃隊が出撃すると、南雲機動部隊に残された航空兵力は各空母零戦3機となるはずだった [] 。一方で、複数の関係者からこの予令が存在しない旨の証言がある [] 。(「 資料の問題 」節を参照).

午前2時15分 頃、アディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は日本軍 零式水上偵察機 (利根4号機)を発見 [] 、近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果、15分後に南雲部隊を発見して「日本空母1、ミッドウェーの度、浬」と平文で報告した [] 。日本側もPBY飛行艇を発見し、警戒隊の軽巡洋艦 長良 ミッドウェー海戦 煙幕 があがった [] 。南雲機動部隊は直掩 援 零戦隊を発進させ始めたが、アメリカ軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け、零戦隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった [] ミッドウェー海戦 、アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を発見・報告した [] ссылка 混線 したため内容が把握できなかった。両部隊が内容を把握できたのはPBYからの続報を元にして、()にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。この平文電報は赤城でも傍受している [] 。.

空襲が予想されるミッドウェー基地では午前3時()に迎撃の戦闘機26機 バッファロー20、ワイルドキャット6機 が出撃し、続いて TBFアベンジャー雷撃機 6機、 Bマローダー爆撃機 4機、 ミッドウェー海戦 12機、 SBDドーントレス急降下爆撃機 16機という混成攻撃隊が南雲部隊へ向けて発進した [] 。基地には予備のSB2U 5機及びSBD 3機が残された [] 。午前3時7分()、ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は直ちに行動を開始すると、エンタープライズのスプルーアンスに対して攻撃を命令した [] 。アメリカ海軍の3空母は直ちに出撃準備を開始、スプルーアンスはエンタープライズとホーネットの攻撃隊発進を午前4時()と指定した [] 。.

午前3時16分()、ミッドウェー基地上空の米軍戦闘機隊は艦攻、艦爆、戦闘機隊の順で進撃して来る [] 日本軍攻撃隊(友永隊)機を発見する。戦闘はカタリナ飛行艇の 吊光弾 投下と米軍機の奇襲で始まり、先頭の友永隊長機を始め艦攻多数が被弾 ミッドウェー海戦 、直後に零戦隊が逆襲に転じて戦闘機同士の制空戦となった [] 。約15分の空中戦は日本側の勝利に終わる。迎撃した F2Aブリュースター・バッファロー戦闘機 20機のうち13機が撃墜され、 F4Fワイルドキャット戦闘機 6機のうち2機が撃墜され、帰還したバッファロー5機、ワイルドキャット2機が使用不能となった。アメリカ軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は午前3時30分( から午前4時10分 にかけて空襲を実施した [] 。映像撮影のため派遣されていた 映画監督 ミッドウェー海戦 ジョン・フォード などが見守る中、重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが、滑走路の損傷は小さく、死傷者も20名と少なかった [] 。九九艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している [] 。日本軍攻撃隊は、アメリカ軍戦闘機41機撃墜確実・9機不確実を主張し、艦攻5機、艦爆1機、零戦2機を失った [] 。残る機も相当数が被弾しており、艦攻16、艦爆4、戦闘機12 修理不能2 が損傷した [] 。友永大尉機も被弾によって無線機が使用不能となり、小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせている [] 。アメリカ軍側は空中戦で日本軍機機を撃墜・地上砲火で10機撃墜を主張し、バッファロー13機、ワイルドキャット2機を失い、残る戦闘機も被弾して出撃可能機は2機となった [] 。また、帰途につく艦攻隊に最初の空戦で海面に不時着した艦航隊第二中隊長機 菊池六郎 中隊長以下3名がゴム 筏 の上でマフラーを振っているのが発見され非常食が投下されたが、その後の戦況のため救助されることはなかった [] 。.

ミッドウェー海戦 [] 。ミッドウェー基地攻撃中の午前3時49分 、筑摩の4号機が天候不良のため引き返すと報告 受信午前3時55分 [] 。午前3時55分 、利根の1号機から「敵15機わが艦隊に向け移動中」という報告を受け、更に零戦6機を直掩に加えた。アメリカ軍側の記録によれば、ヨークタウンから発進した10機の索敵機である [] 。同じく四空母に分乗している第六航空隊の零戦21機を使用できるよう準備を指示している。直掩隊は弾薬と燃料補給のため頻繁に着艦・交替を繰り返したため、飛行甲板に艦攻や艦爆を並べることが出来なかった [] 。. 日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していた頃、南雲機動部隊は「に至り敵第一次攻撃あり、その後頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というようにアメリカ軍機の継続的な空襲に悩まされていた [] 。午前4時5分 、重巡洋艦 利根 はアメリカ軍重爆撃機10機を発見する ミッドウェー海戦 。アメリカ軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から発進した TBFアベンジャー雷撃機 6機(フィバリング大尉)と、爆弾の代わりに 航空魚雷 を抱えた ミッドウェー海戦 4機(コリンズ大尉機)だった [] 。シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入してしまったため、彼らは戦闘機の護衛なしに進撃してきたのである [] 。赤城と利根が発砲し、直掩の 零戦 10機が迎撃する [] 。アベンジャー6機のうち3機は直掩機により撃墜され、残り2機も投下後に撃墜、アーネスト中尉機だけが生還した [] 。赤城はアメリカ軍の魚雷を全て回避した。被害は 機銃掃射 で赤城三番高角砲が旋回不能(30分後に修理完了)、砲員に負傷者が出たほか、両舷送信用空中線が使用不能となり、赤城(旗艦)の通信能力に支障が生じた [] 。赤城を狙ったB隊は魚雷本命中を主張しているが、実際には回避されている [] 。Bは2機が撃墜され、生還した2機もひどく損傷して放棄された。.

ミッドウェー基地から発進したアメリカ軍陸上機による空襲は、ミッドウェー島の基地戦力が健在である証拠であった [] 。友永隊の報告をふまえ、南雲中将はミッドウェー島基地への再空襲を決定する。 近藤信竹 中将の率いるミッドウェー攻略部隊( 第二艦隊 )の上陸開始は6月7日と決定されている。それまでにアメリカ軍基地航空戦力を壊滅させなくてはならなかったからである [] 。午前4時15分()、南雲司令部は各艦で待機中の攻撃隊に対し、「本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。兵装は爆装に転換(通達、第二次攻撃隊本日実施、待機攻撃隊爆装に換え)」と通知し、陸上攻撃用爆弾への換装を命じた [] 。アメリカの研究調査によれば第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)に対しては特に兵装転換の指示は出されず、爆装しない状態で待機中だったとの意見もある(但しどの記録資料か、誰の研究かについては明記がない) [] 。海戦前に飛龍で行われた実験では、魚雷から爆弾への転換に1時間半から2時間かかっている [] 。燃料補給と弾薬補給を求める直掩戦闘機が着艦するため飛行甲板を開けねばならず、兵装転換作業は各空母格納庫で行われた [] 。.

その頃、アメリカ海軍第17任務部隊の指揮官 フレッチャー 少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって南雲機動部隊の位置をほぼ特定することに成功し、攻撃するタイミングをうかがっていた。午前3時7分 、フレッチャー少将はスプルーアンス少将に「南西に進み、敵空母を確認せば、それを攻撃せよ」と命じ [] 、これを受けたスプルーアンス少将は午前4時()過ぎに攻撃隊発進を命令、第16任務部隊は次からなる機の攻撃隊を発進させた。. また、日本軍の空母4隻全ての所在を確認した第17任務部隊(フレッチャー少将)も、警戒のために出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前5時30分()に、次からなる35機の攻撃隊を発進させた [] 。. ヨークタウンは()に攻撃隊を発進させると、すぐに ウォリー・ショート 大尉のSBD爆撃機17機 VS-5 、戦闘機6を甲板に並べ、発進準備を行った [] 。また米潜水艦 ノーチラス は日本戦艦を雷撃したあと、午前6時10分 に「敵巡洋艦(駆逐艦 嵐 )を雷撃するも命中せず、 爆雷 6発で攻撃される」と日誌に記録したが、誰にも報告しなかった [] 。.

日本時間午前5時 から午前5時30分()にかけて、ミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が南雲部隊上空に戻ってきた [] ミッドウェー海戦 [] 。混乱した状況下、南雲中将は利根4号機に対し「敵艦隊の艦種知らせ」と命じた [] 。すると午前5時20分 ごろ、「敵兵力は巡洋艦5隻、駆逐艦5隻(発信)」という報告があった [] 。この段階での南雲司令部は、アメリカ軍空母が存在するという確証を持っていない [] 。しかし、午前5時30分 、「敵はその後方に空母らしきもの一隻を伴う。ミッドウェー島より方位8度、浬(発午前5時20分)」との打電が入った [] 。この空母はホーネットである [] 。偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により10分の差が生じている。.

偵察に出発した十三試艦爆と入れ替わるようにミッドウェー島の攻撃を終えた蒼龍攻撃隊が艦隊上空に戻ってきた。この時 ミッドウェー海戦 (飛龍、蒼龍)を率いていた山口少将は、一刻を争う状況と判断して、駆逐艦 野分 を中継し、あらゆることを放棄し、現装備の陸用爆弾のままですぐに攻撃隊を発進させるように、南雲長官に進言した [] 。文面には諸説ある。一説には「直チニ攻撃隊発進ノ要アリト認ム」だったとされる [] [] [] ミッドウェー海戦 [] 、一航艦信号員だった橋本広 [] 、「日映」特派員として従軍していた司令部付の牧島貞一記者が証言している [] ミッドウェー海戦 安井真二 少佐によれば、「攻撃隊ヲ」の形で山口自ら起案し(普通は起案は参謀に任せる)、発信するように二航戦航空参謀の 橋口喬 少佐に指示したという [] 。赤城の発着指揮所で一航艦司令部の様子を伝聞していた淵田中佐も「攻撃隊ヲ」の形で証言している [] 。一方で、「現装備ノママ直チニ攻撃隊ヲ発進セシムルヲ至当ト認ム」という説もある [] 。一般的にこの進言は「〜の要ありと認む」と記されるが、飛龍の掌航海長だった田村士郎兵曹長によれば、山口少将から発信の指示を田村が直接受けたとして、文面は「現装備ノママ〜」「〜至当ト認ム」であり、南雲長官が雷装準備が完了するまで出撃を引き伸ばさないよう促しているという [] 。.

進言時点で第二次攻撃隊は出撃の準備態勢に入っており、発進は可能だった ミッドウェー海戦 。ただ、この時点で赤城・加賀の攻撃隊は陸上攻撃用の兵装転換はまだ終えていない [] 。草鹿参謀長、源田参謀の証言では、すぐに発艦準備に入れるものは第二航空戦隊の艦爆隊だけだったという [] [] ミッドウェー海戦 [] 。. 午前5時30分( 、赤城からの「艦爆隊二次攻撃準備、キロ爆弾揚弾セヨ」との信令を受け、第二航空戦隊 ミッドウェー海戦 は二次攻撃に備えkg爆弾の揚弾を開始する [] 。. 各空母の状況に加え、偵察機の報告ではアメリカ軍機動部隊までの距離はまだ遠い(実際のアメリカ軍機動部隊はもっと近くにいた)事も踏まえ、南雲司令部は幾つかの条件を検討した [] ミッドウェー海戦 [] 。.

南雲は山口の進言を却下。南雲は米機動部隊艦隊から攻撃を受ける前に兵装転換を行い、日本軍攻撃隊は発進可能と判断した [] 。南雲の幕僚らによれば、戦闘機の護衛をつけずに攻撃隊を出す危険性や第一次攻撃隊を見捨てることへの懸念から帰還した第一次攻撃隊の収容を優先すべきと考えたという [] (詳細は「勝敗の要因」)。午前5時37分()、各空母は日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する [] 。午前5時55分 、「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた [] 。同時刻、重巡洋艦 筑摩 から「水上偵察機、午前6時30分 発進予定」との報告がある [] 。南雲には、第一航空戦隊(赤城・加賀)の艦攻(雷装)は午前7時30分発進可能との報告、第二航空戦隊(飛龍、蒼龍)は午前7時30分から午前8時に発進可能との報告があった [] 。.

午前5時45分( 、「更に巡洋艦らしきもの2隻を見ゆ(発信午前5時30分)」という利根4号機からの追加情報が入る [] 。攻撃隊収容中の午前5時48分 、利根4号機から帰投するという電報が届いた [] 。阿部少将は第八戦隊「利根」、「筑摩」に交代の偵察機発進を命じると ミッドウェー海戦 、利根4号機に「帰投まて」を命じた [] 。零式水上偵察機の航続距離は通常10時間であるため、まだ十分飛べると考えたためである。南雲も午前5時54分に無線方位測定で位置を把握するための長波輻射を利根4号機に命じた [] 。だが利根4号機は午前5時55分()に「敵攻撃機10機貴方に向かう」の通報のみを行い、輻射は行わなかった [] 。.

後方の戦艦大和で南雲機動部隊からの電報を受信していた山本五十六以下連合艦隊司令部は、予期せぬ米軍機動部隊が出現した事にたいして慌てなかった [] 。宇垣纏参謀長は司令部の雰囲気が「さては敵の機動部隊の激撃なる、よき敵御座んなれ、第二次攻撃は速に之に指向に、先づ敵空母を屠り、残敵を如何に処分すべきかと楽観的気分に在り」と述べている [] 。山本が黒島亀人先任参謀に「米艦隊への攻撃命令を出すか否か」を尋ねると、黒島は「南雲は兵力の半数を米空母機動部隊に対して準備しているから必要なし」と答え、連合艦隊司令部は何も発信しなかった [] 。. 第一次攻撃隊の収容は午前6時30分( までに完了したとされるが [] 、蒼龍では午前6時50分頃までかかっている [] ミッドウェー海戦 山本五十六 長官)に米空母発見を知らせると、直ちに米空母攻撃へ向け準備を開始する [] 。赤城では第一次攻撃隊の収容が終わると九七艦攻の雷装への復旧作業が開始された [] 。この状況下、午前6時20分()頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊 TBDデヴァステイター雷撃機 15機が日本の機動部隊上空に到達 [] [] 、日本側では赤城や筑摩が確認した [] 。この時点で南雲機動部隊の直掩機は18機に減少していたが、直ちに加賀5機、赤城3機が迎撃に上がる [] 。アメリカ軍攻撃隊は部隊毎に進撃したので連携が取れず、ホーネット雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま赤城を狙った。一機の雷撃機は赤城の艦橋に接近して墜落し、草鹿参謀長は死を覚悟している [] 。 デヴァステイター 隊は零戦により全機が撃墜され、不時着水した機体から脱出したジョージ・ゲイ少尉1人を除く隊員29名が戦死した [] 。ゲイ機は蒼龍を雷撃して飛行甲板上を通過したが、魚雷は命中せず、直後に零戦に撃墜されたとされる ミッドウェー海戦 。戦闘後の 名誉勲章 推薦状には「ホーネット雷撃隊は日本空母に魚雷を命中させ、日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり、後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる [] 。一方「ホーネット」の戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い、南雲部隊も発見できなかった [] 。戦闘機隊とドーントレス13機はミッドウェー基地へ向ったが、燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス3機が不時着水、残りのドーントレス20機はホーネットに帰艦した [] 。.

ミッドウェー海戦 [] 。阿部司令は午前7時()まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け、帰還を許可した [] 。同時刻、利根の4号機と交代すべく筑摩の5号機が発進した [] [] 。午前7時( 、蒼龍の十三試艦爆は索敵線上に米艦隊を発見できず、引き返した [] 。これは前述のように、利根4号機が報告した米艦隊の位置がkm以上ずれていたためである [] 。. 午前6時50分()、ユージン・リンゼー少佐率いるエンタープライズの雷撃隊14機が南雲部隊上空に到達した [] 。通信不良と連携ミスにより10機のワイルドキャットはホーネット雷撃隊を護衛していたため、エンタープライズの雷撃隊を掩護できなかった [] 。エンタープライズの雷撃隊は加賀を目標にするが9機を失い、帰還中の1機が着水、1機が帰還後投棄、残存3機だった。零戦1機撃墜と引き換えに隊長を含む29名が戦死する [] 。その上、命中魚雷も得られなかった。戦闘機隊の連携ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失ったことに生き残った隊員達は激怒し、帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。一方で、零戦の攻撃に積極性が見られず、度重なる発進、戦闘、着艦の連続で疲労がたまっていたという推測もなされている [] 。.

その頃、 クラレンス・マクラスキー 少佐率いる エンタープライズ の艦爆隊 ミッドウェー海戦 32機は日本の機動部隊を見つけられず、燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつ、予想海域の周辺を捜索していた [] 。マクラスキーは日本軍機動部隊が北方に退避すると推測し、変針しつつ捜索を続行する ミッドウェー海戦 。午前6時55分(09:55)、アメリカの潜水艦ノーチラスを攻撃したのち南雲機動部隊へ戻ろうとしている駆逐艦嵐を発見した [] 。エンタープライズ艦爆隊は「巡洋艦」と報告する [] ミッドウェー海戦 注:ノーチラス の雷撃を受け、直ちに爆雷攻撃するも効果不明」と報告していた [] 。ただし嵐の戦友会は、空襲直前の日本時間午前7時()の段階で、嵐は赤城の直衛で傍を離れていなかったと主張している [] 。エンタープライズの艦爆隊は、眼下の日本軍駆逐艦(爆撃機隊は巡洋艦と判断)は空母部隊へ向かっているものと判断して北東進路上を索敵した結果、午前7時24分()頃、南雲機動部隊を発見した [] 。この間、ドーントレス1機が不時着、1機が行方不明となったので、エンタープライズの艦爆隊は30機となった [] 。.

日本時間午前7時22分(現地時間)、 マクスウェル・レスリー 少佐率いるヨークタウン艦爆隊も戦場に到着する。こうして南雲機動部隊への空襲は、エンタープライズの艦爆隊とヨークタウンの艦爆隊の同時攻撃となった。日本側は先ほどのヨークタウン雷撃隊に対応して直掩 ミッドウェー海戦 のほとんどが低空に降りており [] ミッドウェー海戦 [] вами 中山 駅 знакомы ミッドウェー海戦 艦爆 隊で、加賀を狙った [] 。日本艦隊は急降下爆撃隊に気付かず、対空砲火も間にあわなかった [] 。午前7時分()、マクラスキー少佐率いる小隊の攻撃は至近弾だったが、続くギャラハー大尉機の投弾した4発目が飛行甲板後部に命中 [] 、続き3発が短時間の内に命中した [] 。なお加賀を攻撃したのはレスリー少佐と部下のヨークタウン艦爆12機と主張するアメリカ研究者もいる [] 。.

午前7時25分()、レスリー少佐のヨークタウンの艦爆隊17機がエンタープライズの艦爆隊に続く形で蒼龍へ攻撃を開始した [] [] 。蒼龍は艦爆機と記録 [] 。発艦直後のアクシデントでレスリー少佐を含む数機は爆弾を誤投下していたが、自ら先頭にたって「赤褐色の飛行甲板、右舷に小さな艦橋、その後方に直立煙突がある空母」へ 機銃掃射 をもって突入した [] 。2番機ホルムベルク大尉機の爆弾は蒼龍の前部エレベーター前に命中し大爆発を起こし、大尉は発艦中の日本軍機が空中に跳ね飛ばされるのを見た [] 。 ヨークタウン 艦爆隊は直撃弾5発、至近弾3発を主張しているが、実際の命中弾は3発である [] 。後続のうち4機が目標を変更し、そばにいた艦艇を狙う。命中弾はなかったが、駆逐艦 ミッドウェー海戦 の後部に至近弾となった [] 。.

約6分間の出来事であったが、太平洋戦争のターニングポイントとなった [] ミッドウェー海戦 岡田次作 ミッドウェー海戦 [] 、午後1時23分(16:23)、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた 天谷孝久 飛行長が総員退去を決め、乗組員は駆逐艦萩風、舞風に移乗する [] 。なおも機を見て救出を行おうとしたが果たせず、午後4時25分(19:25)、大爆発が2回起きた больше на странице 。加賀は艦首と艦尾が水平になりながら沈んだ。戦死者は閉じ込められた機関部員を含め名弱で、航空機搭乗員では 楠美正 飛行隊長以下、機上・艦上合わせて21名が戦死した [] 。. 赤城が被弾した爆弾は発程度で機関部へのダメージはなく、十分復旧可能であった [] が、被弾による火災が兵装転換時に格納庫内に乱雑に置かれた爆弾、魚雷、航空機の燃料へ次々と誘爆を起こし、大火災が発生した ミッドウェー海戦 。さらに、被弾直後に雷撃機4機を発見し、回避のため左舵をとったところ、舵が固定して動かなくな [] り洋上に停止した [] 。赤城の南雲司令部は内火艇に乗り退艦、駆逐艦 野分 に移乗したあと軽巡洋艦 長良 に移った [] 。直接長良に移乗したという 牧島貞一 従軍カメラマンや乗組員の証言もある [] 。午前8時30分(11:30)、南雲は長良に将旗を掲げた [] 。 青木泰二郎 艦長は消火作業を続行させるが、再度の誘爆により、午後4時25分( ミッドウェー海戦 [] 。赤城の処置をめぐって連合艦隊司令部では議論が交わされ、午後7時25分 、山本長官は赤城の処分を中止させた [] 。南雲は、 木村進 少将 第十戦隊司令官 に「長良で赤城を曳航できないか」と尋ねている [] 。結局、6月6日午前1時50分(6月5日 に処分命令が下り午前2時に第四駆逐隊の4隻(萩風・舞風・野分・嵐)が雷撃処分した [] 。上記2隻と比べて赤城では機関部員が閉じ込められずに脱出できたので戦死者はそれらより少なく、准士官以上8名、下士官兵名の計名。搭乗員の戦死者は機上・艦上合わせ7名である。 淵田美津雄 中佐、 ミッドウェー海戦 少佐、 村田重治 少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。.

飛龍は雲下にあり、またヨークタウン雷撃機の攻撃回避のため他の3隻の空母から離れており、アメリカ軍急降下爆撃機群の攻撃を受けなかった [] 。. 午前7時50分 、 一航艦 の次席指揮官である第八戦隊司令官の 阿部弘毅 少将は赤城、加賀、蒼龍の被弾炎上を主力部隊に通報する [] 。阿部は「飛龍ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ、機動部隊ハ一応北方ニ避退、兵力ヲ結集セントス」と述べ、続いて第二航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた ミッドウェー海戦 。.

午前7時50分 の時点で、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将は独自の判断で飛龍を単艦で北東方向に進めており、被爆した三空母とそれを取り巻く 一航艦 の各艦からは相当離れた位置にあった [] 。山口少将は、来襲した艦載機の数から敵空母は2隻と判断しており、飛龍1隻の航空戦力で十分に戦えると考えていた [] 。艦爆は攻撃の準備を終えて艦攻は雷装中であり、間に合った零戦をつけた [] 。山口少将は、阿部少将の命令と入れ替わりに「全機今より発進、敵空母を撃滅せんとす」と全部隊に発信した [] 。先任の阿部をさしおいて山口少将が反撃を主導したのは [注 3] 、山口少将の性格と、二航戦が現時点での主力であり重要な戦機であると考えたためとする意見もある。敵空母は攻撃を終えた艦載機を収容中であり、接近して攻撃力を発揮できる好機だった [] 。. 午前7時54分()、南の水平線上に炎上する3空母が見える状況で、飛龍は攻撃隊発艦のために風上の東に針路を変更した。 []. 午前8時 、第一波攻撃隊として ミッドウェー海戦 大尉(艦爆)指揮する 九九艦爆 18機、 ミッドウェー海戦 6機の計24機が発艦した [] [] 。九九艦爆のうち、12機はkg通常爆弾、陸用爆弾装備機は6機だった [] 。飛龍は第一波攻撃隊を発進させるとすぐに第二波攻撃隊の準備にかかり、同時に米機動部隊の方向に進撃した [] 。同じ時間帯には蒼龍が搭載していた十三試艦爆がアメリカ軍航空隊を発見し、南雲部隊に通報 [] 。飛龍の第一波攻撃隊が発進するのと同時刻、筑摩5号機が発信した米艦隊の位置情報が届いた [] 。第八戦隊は、筑摩4号機・5号機に対し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ、攻撃隊ヲ誘導セヨ」と連絡している [] ミッドウェー海戦 [] 。第一波攻撃隊を指揮する小林大尉は米軍艦上機の飛行経路を辿る事で筑摩5号機の誘導に頼ることなく米軍空母部隊に辿り着く戦法をとったが、米軍艦爆隊との小戦闘に巻き込まれる遠因にもなった [] 。.

ミッドウェー島攻撃から帰還した友永大尉の ミッドウェー海戦 (左右の両翼に計4つの燃料タンクがあり、それぞれ機体側にリットルの主タンク、翼端側にリットルの補助タンクがある [] )は、ミッドウェー島を攻撃した際に、F4F戦闘機の機銃弾が左翼つけ根付近を貫通し、左翼主タンクを射抜かれていた [] 。第二波攻撃隊を編成する時点で、出撃可能な艦攻は友永機を除くと9機であった [] 。友永大尉の次席指揮官となった 橋本敏男 ミッドウェー海戦 [] 。橋本大尉は乗機の交換を友永大尉に進言したが、友永大尉は攻撃機数を確保するため交換を拒否し [] 、友永大尉が第一中隊(艦攻5機)を率い、橋本大尉が第二中隊(艦攻5機)を率いることとなった [] 。.

橋本大尉は、友永機について「左翼タンクの応急修理くらいはしたはず」と戦後に推定していた [] 。飛龍で友永機の機付整備員であった谷井繁義によると、射抜かれたタンクの交換には半日を要し、もとより不可能であり、貫通孔を麻布と接着剤でふさぐ応急修理のみが可能であった [] 。谷井ら整備員が応急修理を終えて燃料を入れてみると、気がつかなかった別の破孔から燃料が漏れ出し、既に再修理の時間はなく、友永機の左翼主タンクは使えなかった [] 。友永大尉は、整備分隊士の野依武夫・整備兵曹長が「片道燃料では出撃させられない」と制止するのを振り切って出撃した [] 。蒼龍乗組の戦闘機搭乗員で、機動部隊上空直衛任務に就いており、蒼龍大火災のため飛龍に着艦した 原田要 ミッドウェー海戦 [] 。米艦隊までの距離は近く、友永大尉は「敵はもう近いから、これで十分帰れる」と告げている [] 。. 午前8時15分()、ヨークタウンでは攻撃隊着艦作業が始まったが、着艦事故が発生し甲板が損傷 [] 、、修理が終わり、SBD爆撃機10機に索敵任務が与えられた [] 。. 午前8時20分()、飛龍の第一波攻撃隊は空母に帰還するエンタープライズの艦爆隊を発見。日本艦隊へ向う攻撃隊と勘違いした零戦隊( 重松康弘 大尉指揮)から2機が迎撃に向かい、峰岸第2小隊長機が弾薬を使い果たして帰還 [] 、1機が被弾し日本軍艦隊付近に不時着救助された [] 。このため攻撃隊護衛機は4機に減った。それでも米空母に接敵する筑摩5号機からの電波を頼りに進む日本軍飛龍第一波攻撃隊(22機)はついにヨークタウンを発見した [] 。F4F直掩隊12機の迎撃により零戦3機、九九艦爆10機が撃墜され、九九艦爆8機のみがヨークタウンを攻撃した [] 。急降下中に艦爆3機が撃墜されたが、5機が投下に成功、爆弾3発が命中、1発がボイラー室に火災を発生させ、ヨークタウンは動力を失い航行不能となり [] 、フレッチャー司令官は重巡洋艦アストリアに移乗した [] 。.

代償として、飛龍第一波攻撃隊は艦爆13機(小林隊長機を含む)と零戦3機を失い、艦爆5機と零戦1機が飛龍に帰還しただけだった [] 。帰還機も、零戦1が海面に不時着(搭乗員は救助)、艦爆1が修理不能であり、修理後使用可能艦爆2・零戦1という状況だった [] 。飛龍攻撃隊はエンタープライズ型空母に爆弾5発、陸用爆弾1発を命中させ、大破あるいは大火災、撃沈と報告した [] 。. しかし、ヨークタウンは午前11時 過ぎに爆撃による火災を鎮火し、速力20ノット発揮可能となった [] 。. 午前8時30分、十三試艦爆はアメリカ軍機動部隊発見を発信している [] ミッドウェー海戦 。十三試艦爆は発信5分後帰路についたが [] 、無線機の故障により、南雲部隊ではアメリカ軍機動部隊発見の報告を受信しなかったという [] 。この頃、赤城の零戦隊7機が飛龍に着艦した [] 。加賀からは零戦9機 [] 、蒼龍からも零戦4機、艦攻1機が飛龍に着艦した [] 。.

午前9時()、偵察隊発進後まもない中で レーダー が南西46海里に日本軍機を探知する [] 。ヨークタウンは重巡洋艦 アストリア と ポートランド 、駆逐艦 ハムマン 、 アンダースン、ラッセル、モーリス、ヒューズ に 輪形陣 を組むよう命じ、F4Fワイルドキャット戦闘機12機を発進させた [] 。.

また偵察と攻撃部隊誘導に活躍した筑摩の5号機は、午前9時5分 にアメリカ軍戦闘機の追跡を受け退避 [] 、その15分後、新たなアメリカ軍機動部隊を発見した。. 同じ時間帯に、南雲も長良の周囲に第三戦隊 戦艦榛名、霧島 、第八戦隊 利根、筑摩 、駆逐艦4隻を集め、速力30ノットで北東に向かった [] 。. 午前10時 、駆逐艦 嵐 は海面に漂うヨークタウン雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス ミッドウェー海戦 Frank Osmus 海軍予備少尉を救助し、尋問を行った [] 。 有賀幸作 第四駆逐隊司令は尋問内容を受けて以下の内容を発信した [] [] 。この電文は攻略部隊・第二艦隊の重巡洋艦愛宕(旗艦)も受信している [] 。. 連合艦隊は、アメリカ軍機動部隊の戦力と出動空母の名前を知った。この時、オスマスはエンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機18、偵察機18、雷撃機12、戦闘機27)や、真珠湾攻撃で沈没した米戦艦群のうち、戦艦 アリゾナ 、 ミッドウェー海戦 、艦型不詳を除く戦艦4隻が回航修理中であることも証言している [] 。後に、オスマス少尉は兵の独断で殺害されてしまったという [] 。オスマスは 水葬 に附された [] 。彼の名前は バックレイ級護衛駆逐艦 「 オスマス 護衛駆逐艦 ( 英語版 ) 」に受け継がれている。.

午前10時15分 、第八戦隊 阿部司令官 は南雲部隊各艦(霧島、榛名、利根、筑摩)に対して直ちに索敵機を発進させよと命じた [] 。. ミッドウェー海戦 、飛龍から第二波攻撃隊(艦攻10機、零戦6機)が発進 [] 。うち、零戦2機(山本、坂東)は飛龍に着艦した加賀所属機、艦攻1機は赤城所属機だった [] ミッドウェー海戦 [] 。いれかわるように飛龍第一波攻撃隊が飛龍に着艦した [] 。. 午前10時30分()に着艦した十三試艦爆(近藤機)が三群の米機動部隊に接触したものの、無線機故障で発信できなかったことを報告した [] 。十三式試艦爆の偵察に対し、戦闘詳報は「敵機動部隊の情況不明なりし際、極めて適切に捜索、触接に任じ、その後の攻撃を容易ならしめたり。功績抜群なり」と高く評価している [] 。この時点で、山口少将は利根4号機、筑摩5号機が通報した空母1隻の他に、エンタープライズ型空母、ホーネット型空母(原文ママ)が存在することを知った [] 。.

午前11時 、母艦利根で補給を終えた利根3号機、4号機が再び発進する [] 。. 午前11時30分 、戦艦榛名の偵察機(榛名1号機)も附近に空母がいる可能性を知らせた [] 。この時、飛龍の第二波攻撃隊はアメリカ軍機動艦隊を発見するが、それは復旧作業中のヨークタウンだった [] 。筑摩5号機が撃墜されたため、友永隊は自力でアメリカ軍機動部隊を探さねばならず、火災もなく航行する米空母を見た 友永丈市 大尉はヨークタウンを「損傷を受けていない別の空母」と判断した [] ミッドウェー海戦 [] 。.

 
 

ミッドウェー海戦とは – コトバンク.

 
 
ミッドウェー海戦とは、太平洋戦争中の昭和17年(年)の6月5日~7日にかけて、日米の海軍が繰り広げた大規模な戦いのことです。この戦いで日本海軍は空母4隻、航空機約 ミッドウェー海戦(ミッドウェーかいせん、英語: Battle of Midway)は、第二次世界大戦(太平洋戦争)中の年(昭和17年)6月5日(アメリカ合衆国標準時では6月4 太平洋戦争で、日本敗戦への転換点となったミッドウェー海戦から今年で80年。敗因と教訓を、中国の太平洋進出に重ねながら考える。

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